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美味しい時間

———なかなかピタリとくる言葉が見つからないので、美味しい、美味しくないという言葉を使うことにした。どちらもぼんやりとしているので、問題はなかろう。


 そう思ったのはふと散歩をしていた時だ。昼にあまりご飯を食べなかったので、ちょうどお腹が空いていた。途中に食堂があったので、そこで食べようかと思ったのだけれどもやめた。まだその空腹を味わっていたかった。疲れか、運動不足か、空腹か、何のせいだかわからないが持ち上がらない足を運んで、今パソコンの前で座っている。静かな部屋にお腹の音が響く、そんなことなら、外で食べてくればよかったと思う。今一度外へ繰り出しご飯を食べようと思っても外は雪が深々と降っている。これでは私の足は動かない。あまりの寒さに凍てついてしまった。自分の計画性のなさには飽き飽きするが、せっかくなので、散歩の際に思いついたことを忘れないように記しておこうと思って、noteを開いた次第である。
 noteを開くのは久しぶりだ。いつぶりか分からない。最近昨日のことさえ子供の時のように感じるため、前回のnoteもそこまで前の話ではないのかもしれない。いや、思い出せないことに精を出すより今日味わった時間を忘れないうち書いておかなければ。いつもそれで書く内容を忘れているではないか。そんなことさえ忘れてしまったのか。気を緩め、先ほど感じた美味しさを反芻する。以前、ご飯を美味しく感じられなくなったという話を書いた。

 それは、ご飯というもの自体に飽き飽きしたという話だったのだけれども、今でもそれは変わらないままで、しかしながら、ご飯に付属するものに興味を持つようになった。誰かと行けば、その時間はご飯を食べるという栄養補給から交流会へと早変わりする。興味の対象は徐々にそう変わっていった。そして今、ご飯の前の時間に手を伸ばしている。ここまで大層な口ぶりで語ってきたがつまるところ、ご飯は食べる前の時間が一番いいということである。その感情を表す言葉が見つからなかったので、”美味しい”時間と呼ぶことにした。

 美味しい時間は食べる瞬間もしくはそれより前食堂に入った時、あるいは買った時に消え去っていく、ご飯を食べようとしたその一時にのみ時間は美味しくなる。

 最近料理を作るようになった。料理を作ってみるとなるほど料理を作るのが好きという人の気持ちがわかった気がした。その何かを生み出しているという感じが料理を作るように語りかけてくるのだろう。昔から何かを作るのが好きだったが、多大なる劣等感や自分を見せることに対する恐怖から全く何もしていなかった。下手な絵も描かなくなったし、妄想小説はプロットのまま。大学入った時に引っ越しの段ボールで作った爪ぐるまはそういう意味では特殊の行いだったと省みる。

 そう考えると自分はものを生み出す人に対して憧れを覚えているのかもしれない。だからこそ文系に行くのをひどく嫌い、同時に先の見えない理系を恐れていたのだろう。何かしらを生み出したかった。どちらも生み出せそうもなかった。

 実際にnoteをやってみると、最初のうちは緊張や不安があ理、治ったと思えばぶり返し。まだ慣れていないのかもしれない。

 ところで、実はそのものを作っている時間は美味しい時間ではない。別の何かだ。作る前はためらいがあるが、最中は無心で、長引くと嫌になる。それはそれで美味しいが、また違った感じがする。
 

 時間をそうやって切り分けてそれぞれ味わってみると、なかなか面白い。何もしたくなくてそんな自分が嫌な時は美味しくないと考えていると、なぜか急にご飯が食べたくなる。そうして家を出ると、何だか楽しくなってきて、着く前には時間が美味しくなってくる。そしてご飯を食べ、ついでに本でも見ようかと本屋に入り、面白そうだと本を買う。そしてこの本は一体どんな本なのだろうと考える。非常に美味しい時間だ。本は食事と違って美味しい時間が長続きする。途中でやめて一年後ぐらいにまた読み進めるとまた違った趣がある。しかし、本を読むだけではお腹は膨れない、それが本当に残念で仕方がない。

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