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矛盾は何故してはいけないのか?〜矛盾からはすべてが導かれる(爆発律)〜

矛盾はなぜしてはいけないのか?それは矛盾を含む証明からはなんでも導かれてしまうからだ。
矛盾からはなんでも導けることから爆発的に多くのことが出てくるという意味で矛盾のことを爆発律と言ったりもする。

楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、貫くことのできるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、どんなものでも突き通すことができる」と言った。ある人が「あなたの矛でその盾を突き通したらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった。

wikipedia,[矛盾]

 


矛盾とはどういうことか?

故事成語としての矛盾の話は誰もが聞いたことあるだろう。すなわち何でも貫ける矛と何からも守れる盾を戦わせた時どうなるのか?というものだ。この故事成語はいわばそんな矛(/盾)など存在しないということを言いたいものだ。

論理学において矛盾はもっと整理された形で知られる。
$${P}$$を命題としたとき、前提のどこかに$${P\land\neg P}$$(PかつPでない)が現れたときそれを矛盾という。


$${\land}$$は連言という論理演算子で、日常言語の「かつ」に相当する。$${A\land B}$$の真理値はAもBも真であるときにしか全体$${A\land B}$$は真にならない。そのため$${A}$$か$${B}$$のどちらかが偽であるなら$${A\land B}$$は真にならない。

ところで$${\neg}$$は否定を表す論理演算子で$${\neg}$$がついた命題の真理値を真から偽、偽から真に変える役割を持っている。

したがって、$${P\land\neg P}$$は$${P}$$が真でも偽でも常に全体は偽となる。このような常に偽となる命題を恒偽式=矛盾と呼ぶ。

矛盾からはなんでも導けるという話

$${P\land\neg P\vdash R}$$ 
$${\vdash}$$は、その左側が前提、右側が結論であり、前提が真のとき結論も真である。
(すなわちここでは$${P\land\neg P}$$が真であると考える)
$${R}$$を任意の命題とする。

<$${A\land B}$$から$${A}$$でも$${B}$$でも好きに取り出して良い>

よって$${P\land\neg P}$$から$${P}$$を取り出す。

<命題$${A}$$にはどんな命題$${B}$$も$${\lor}$$で結んでいい>
$${\tiny{\lor は「または」を意味する論理演算子}}$$

つまり$${A}$$から$${A\lor B}$$を導いていい。
よって$${P\lor R}$$

<$${A\lor B}$$と別に$${\neg A}$$がある場合、$${B}$$を帰結していい>

ここで$${P\land\neg P}$$から$${\neg P}$$を取り出して、
$${P\lor R,\neg P}$$から$${R}$$を導いていい。

したがって、$${P\land\neg P}$$から任意の命題$${R}$$が導けた。

ここで出てきた命題$${R}$$は任意の命題なので、文字通りなんとでも解釈していい。

e.g.)
このリンゴは赤である($${P}$$)、かつ このリンゴは赤でない($${\neg P}$$).
したがって、魚は空を飛ぶ($${R}$$)

矛盾からはなんでも導けるということは矛盾する前提から得られる結論はなんの説得力もないということを意味する。
なにせ矛盾からはまた矛盾する命題どうしを導くこともできてしまうからだ。


このような推論は私たちの常識からはあまり許せそうにない

しかし、実は(古典)論理学においては矛盾からはどんな命題も導けるという規則自体は自明であるため禁止されていない

前提が全て真のとき結論も真である推論を妥当な推論という。すでに見たように矛盾は恒偽式(=常に偽)なので、矛盾が前提に来るような推論はふつう取り扱わない。そして私たちが関心あるのは前提が矛盾していない限り結論も正しくなるような推論なのだからそれで十分なはずだ。(ただし$${P\land\neg P}$$を真とみなす限り*⁴上の爆発律はいつでも妥当である、妥当性は前提が実際に真かどうかを気にしない)


矛盾は排斥すべきか?

まるで矛盾は排除されるべき存在のように扱ってきたが、矛盾は別に排斥すべきものではない。

というのも私たちはほとんどの人がこの矛盾を使ったことがあるからだ。そう数学における背理法だ。

背理法のやり方はAと仮定したのちに矛盾が導かれれば、$${\neg A}$$を帰結してよいというものだった。

$${\sqrt{2}は有理数か?}$$
[証明]
$${\sqrt{2}}$$を有理数と仮定する。
有理数は$${\tfrac{m}{n}}$$という形で表せる。($${m,n}$$は互いに素な正の整数)
よって$${\sqrt{2}=\tfrac{m}{n}}$$
両辺を2乗して分母について整理すると
$${2{n^2}={m^2}}$$
ここで$${2{n^2}}$$は2の倍数であるので、$${m^2}$$も2の倍数のはずだ。
すなわち、$${n}$$も$${m}$$も2の倍数である。
しかしこれは$${n,m}$$は互いに素であることと矛盾する。
したがって、仮定は誤り。$${\sqrt{2}}$$は無理数$${\square}$$

このように演繹の過程で矛盾が出たために仮定を修正するような使い方(背理法)での矛盾は明らかに有益で、背理法なしに数学を構成するのは骨が折れることだろう。


矛盾許容論理

爆発律は古典論理学において別に禁止されてはいないという話はすでにした。($${P\land\neg P}$$を真とみなせばいつでも爆発律から任意の命題を導ける(=爆発律は妥当である))

しかし、この$${P\land\neg P}$$が真であるような解釈というのはあまり想像しづらい。そのため、矛盾からなんでも導けるという爆発律は非妥当だという立場が存在する。
非古典論理学における関連論理という立場、あるいは矛盾許容論理という立場だ。

これらの立場は矛盾が前提に出現する推論を非妥当とみなすために、古典論理が持っていた推論規則を弱めなくてはならない。爆発律では次の二つの規則が使われていた。

<命題$${A}$$にはどんな命題$${B}$$も$${\lor}$$で結んでいい>$${\cdots\lor E}$$(論理和除去規則)

<$${A\lor B}$$と別に$${\neg A}$$がある場合、$${B}$$を帰結していい>$${\cdots}$$選言三段論法

これにMP(モドゥス・ポネンス、前件肯定規則)*⁵を加えた3つの(古典論理学において)一般的な規則のどれかを捨てない限り爆発律の妥当性は失われない。

これらの規則の内最も修正されることが多いのは選言三段論法である。しかし、選言三段論法は伝統論理学の頃から存在するまさに伝統的な規則であるため、これを否定してまで爆発律の妥当性をなくす必要があるかは疑問視されている。

矛盾は何故してはいけないのか?

矛盾を非妥当とみなす立場は古典論理における選言三段論法のような推論規則を捨てなければならないためにより弱い論理体系になってしまう。

私たちの普段の論理的思考にメスを入れてまで矛盾とはしてはいけないことなのだろうか?

  • 少なくとも物理的現象に関して矛盾が起きるのは恐ろしいことだ。

なにせ古典論理が物理学にも適用され得るなら、物理的な矛盾からは物理的な大爆発すら生まれうる(矛盾からはなんでも導けるのだから)。
したがって、故事成語としての「矛盾」における「最強の矛」と「最強の盾」は存在してほしくないだろう。


  • 次に会話上の矛盾はどうだろうか?

その日は映画を見ていたのでその時間のアリバイがあります

容疑者Yの証言

などと推理小説などで言われる時、容疑者Yが映画を見ている時間に同時に犯行を行うのは矛盾であるため不可能だ、と判断される。

もし、容疑者Yが実際にその時間犯行に及んでいた場合は上の発言は単に嘘とされて終わるだけだろう。すなわち会話における矛盾は後に新情報が追加されればどちらかが偽でどちらかが真であるとわかる場合があるといえる。

したがって日常会話上の矛盾してはいけない、というのは嘘をついてはいけないに近しい

  • 純粋な論理学上の矛盾はなぜしてはいけないのか。

すでに見たように、古典論理学においては爆発律は妥当であり、古典論理学を弱めない限り非妥当にはならない。

しかし、論理学は私たちの思考を形式化したものである。したがって普段の日常会話においても論理的思考というものは保たれている。

そのため、日常会話で矛盾が嘘をつくべきでないのと同じ理由で排斥されるように、論理学でも矛盾しているより無矛盾であるほうがいい。

このために健全性という考え方を導入しよう。今まではその推論が妥当であるかどうかは前提がすべて真のとき結論も真となるかを確かめればよかったのだった。

健全性とは妥当な推論の内容についてまで踏み込むものだ。つまり、妥当な推論で、その前提に含まれる仮定すべて実際に真であるようなものは健全であるという

妥当性では前提が真でも結論が真かどうかは必ずしも決定しておらず、仮に結論が真の場合妥当であると言っていたのに対し、健全性では前提に含まれる仮定すべてが実際に真であるなら結論が真であることも保証される。

$${P\land\neg P}$$が真であるとみなすことはできても実際に$${P\land\neg P}$$が真であるものを持ってくるのは困難だ。したがって、推論は健全かつ妥当な場合無矛盾であることを保証している。

そして私たちが本当に関心があるのはこの健全かつ妥当な推論のはず*⁶なので、無矛盾でなくてはならない。その意味で論理学においても矛盾はしてはならないのだ。



脚注

*1;ここでは自然演繹的な証明を口語で行っているため厳密さには欠けるかもしれないがご了承願いたい。使用している推論規則は$${\land E}$$(論理積(連言)除去)だ

*2;同様にこの規則は$${\lor I}$$(論理和(選言)導入)

*3;この規則は推論規則としてはないがすぐに証明はできる気になる人は調べてもらいたい。ここでは簡単に日常言語で例を示す程度にする。
(喫茶店で店員から)「当店ではコーヒーまたは紅茶を提供できます」
(あなたが注文して)「コーヒーでない方をお願いします」
これで紅茶ではなくコーヒーを持ってこられたらあなたは怒るに違いない。
伝統論理学においてはこれは選言三段論法と呼ばれる形式にあたる。

*4;$${P\land\neg P}$$が真であるような解釈の元でという意味。

*5;$${P,P\to Q}$$から$${Q}$$を導出していいという規則。

*6;妥当だが健全でない推論、健全にみえる推論、健全かつ妥当な推論をみていこう

妥当だが健全でない推論

すべてのドイツ人はヨーロッパ人だ
ナポレオンはドイツ人だ$${\gets ここが偽}$$
───────────────
$${\therefore}$$ナポレオンはヨーロッパ人である

この論証は前提に偽がふくまれる(健全ではない)。しかし、仮に前提を真とすれば正しく真なる結論が導かれるため妥当ではある。

健全に見える推論

すべてのフランス人はヨーロッパ人だ
ナポレオンはフランス人である
─────────────────────
$${\therefore}$$ヒトラーはオーストラリア人だった

これらは前提がすべて実際に真でかつ結論も真だが推論として間違っており、妥当でない。したがって健全でない

健全かつ妥当な推論

すべてのフランス人はヨーロッパ人だ
ナポレオンはフランス人である
─────────────────────
$${\therefore}$$ナポレオンはヨーロッパ人だ

このように私たちの会話においても必要なのは健全かつ妥当な推論だろう。

参考文献

E.j.Lemmon,『論理学初歩』,世界思想社(1992)

戸田山和久,『論理学をつくる』,名古屋大学出版会(2000)

坂口, 恭久 「関連論理の立場から見た矛盾規則の問題点」,『哲学・思想論叢』,10巻,p.29-40(1992),つくばリポジトリ(2007)
http://hdl.handle.net/2241/15221

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