エヴァンゲリオンと自己肯定感と現実

エヴァンゲリオンの考察を読んでいると、自己肯定感という言葉がとても良く出てくる。
碇シンジは自己肯定感が低い。それは両親に愛を受けなかったからで云々みたいな。

自己肯定感が低いというのは、盾にすれば逃げるのに便利な言葉ではあるけれど、自己肯定感が高ければそもそも逃げる選択肢が出てこない。
シンジ君は確かに作中頻繁に逃げるけれど、最後には意思をもって自分のやるべきことをやる為に戻ってきてくれる。

碇シンジが自己肯定感が高い主人公だったら逃げることもないだろうけれど、逃げることで葛藤するドラマ性はない。
シンジ君は逃げても戻ってきてくれるからカッコいいんだ。
ついでにいうと、シンジ君は基礎スペックが高い男だから、いざ戻ってきたら、やるべきことを完璧に成し遂げてくれる。

自己肯定感という言葉は盾でもあるけど、矛でもあるということ、確かにここに存在するということを、エヴァンゲリオン、というより碇シンジが教えてくれていた。

エヴァンゲリオンの魅力って、今風の言葉で言うと陰キャの魅力を描いたところだと思う。
エヴァは現実をパロディしたもので、世の中はエヴァの世界よりはもう少しだけ明るい。
そもそも現実世界はセカンドインパクトも起きていないし、使徒も攻めてきていないし、エヴァンゲリオンも存在しないけど、そういうことではなくて、人格というか、雰囲気というか。
「ヤマアラシのジレンマ」なんて真顔で言う人、リツコさん以外に見たことない。

世の中には、自分の存在を疑うこともなく、ATフィールドを感じることもなく生きている人たちがいる。
その人たちは、エヴァは嘘のパロディだと思っているんだろう。
シンジが頻繁に逃げるのも、アスカのメンがヘラるのも、嘘だと思って楽しんでいるんだと思う。
でも私にとってはエヴァはあくまで現実のパロディだから、エヴァの世界で起きていることは、今でも現実のように感じる。

ただ、流石に古い作品だから、クソみたいな大人に踊らされる子供という構図自体は古いと言わざるを得ない。特にアニメ版。
その意味では、シンエヴァは大人が自分たちのしょうもなさというか身の丈を受け入れた上で、シンジ君に全てを託す構図になっていたから、今風だな〜と感じたことを思い出した。

なんでこんな唐突にエヴァの話を始めたかというと、パチンコですよ。
未来への咆哮。この機械が面白すぎて、パチンコ屋通いを再開してしまった。
シンプルモードが面白すぎる。まったり打つのに最適。

アツい演出はちゃんとアツいけど、ハズれそうな雰囲気が出てるとハズれるけど、たまに当たるバランス。
時短があるから単発でもワンチャンあって、STも振り分け負けが無いから精神衛生上でも非常によろしい。
役物がシンプルすぎるから、長時間打ってても疲れない。

STで初号機が走ったり歩いたりしてるのが原作にないシーンだから、少し前までは意味不明で許せなかったんだけど、最早許せる気持ちになってしまった。
これが大人になるってことなんだと思う。そんな訳ねえか。

ここで一曲。

林原めぐみ -  集結の園へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?