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40からの再出発

これからの物事を考えることを考察と呼んでもよいのかは分からないが、私が40歳を迎えるこの4月から始まる、実家での新しい生活のことについて、自分の在り方、というか自分の心の在り様を想像してみたいと思う。

これは明らかに人生の転機である。

住むところが変わり、仕事も変わり、家族も変わる。
住む地域も変わるし、コミュニティも変わる。歴史も常識も変わる。
そして怖いことに、それらは半永久的に続くと見て、差し支えない状況だ。


これまでは、未来に対して、変わっていくもの、不確かなもの、そして、多少なりとも登っていく、ものとして認識していた。


けれど、この春からは、私は昔の世界に戻ることになる。もちろん立場や生き方は違うにしても、人生を双六のゲームに喩えるとすると、上がりの場所が、見たこともないどこか、ではなく、始まりに戻る、ということになるのだ。

また人生を山登りに喩えるとすると、スタートとゴールは一緒でも、どのルートを通って、ゴールにたどり着くかは人それぞれ、とよく言われる。急登を息もつかずに登る者、つづら折りの女坂を杖をついて茶屋で一服しながら楽しむ者、その道程は人それぞれだ。


けれど、頂上は頂上であり、登山口とは明らかに異なる。そして、頂上とは言わずもがな、登山口より高い場所にあるものなのだ。だからこそ、どんなルートであれ、どんなに時間がかかろうとも、頂上まで辿り着いた者には、確かな達成感がある。登ったぞ!という充実感と、なにより頂上からの眺めというのは、地上では想像のつかない素晴らしいものなのだ。というか、それを期待して、人々は山を登る。それなしに、誰が辛い思いをして、重い荷物を背負って、汗水たらしながら、険しい道程を進んで受けようとするだろう。

私も、漠然とながら、人生とはそのようなものなのだろうと想像していた。特に、この私が歩む道は、他の人には到達できない、なにか素晴らしいものであるに違いないと思い込んでいた。

しかしながら。

私は長い道のりを掛けて、頂上に到達することなく、登山口に戻ろうとしている。

5合目辺りまでは行ったかもしれない。道中、それなりに綺麗な景色や楽しい出来事、ある程度の達成感も味わった。
けれど、登山とはあくまで頂上を目指すことが唯一の目的であるはずなのに、私は、それをハイキングや散歩にすり替えてしまったように思う。


確かに登山口に戻れば危険は少ない。水も食料も、街への交通手段も豊かだ。

けれど。

じゃあなんでこの登山口まで来たんだっけ、となる。なんで色んな投資をして、20年という歳月を費やして、5合目まで歩いたんだっけ、となる。
目標を自ら下ろす。これまでの人生は、何の為だったんだろう。

いや、人生に、目的なんて見出す必要はない、という考えもある。
それでも自分の精神を健康に保つには、何か、目標があった方がいいに決まっている。


つまり、山は登りたいのだ。
湖に行ったり、ショッピングモールに出かけたり、おいしいレストランに行くのもいい。けれど、やっぱりいちばんは、山に登りたいのだ。自分の力を総動員して、自分のエネルギーを消費させて、その代わりに得難い何かを手にしたいのだ。

ハタチから、自分の山を見つけて登り続けている人は、40の私が登る山より、遥かに高い山を登ることができるだろう。そして、より遠くを、より得難い景色を手に入れることができているはずだ。
一方、40歳から山を登ろうとしている私は、どんな登山をすることができるだろう。
どんな山を目指すか、どこにそれを見出すか、どんなふうに、誰と登るか。

自分を慰めることを考えるのなら、
確かに、アルプスなど、標高が高ければ高いほど、地上とは違った景色や素晴らしい眺望も得られるだろう。
けれど、1,000mに満たない山であっても、素晴らしいと感動できる山はある。


だから、登山に挑む時期が他の人よりだいぶ遅くなったとしても、一度は登山に失敗したとしても、生きている限り、また別の山を見つけて、挑むことはできるのだ。

どこのどんな山を目指すか。山を登りたいという気持ちを失わない限り、自分自身に達成感を持たせることは可能なはずだ。

もしかしたら、最初に挑んだ山は、自分には向かない山だったのかもしれない。登ったところで、眺望の一切得られない山だったのかもしれない。
だから、これまでの時を経て、登山口に一旦戻ることになったとしても、悲観しかないわけではない。


また別の山を見つけたり、計画を立てたり、準備をしたり、そしてまたその登山口まで移動したり、手間は確かにかかる。

けれど、私はこれから自分の考えるように、行きたい所へ行くことができることを忘れてはいけない。自分のお金と自分の頭と、自分の意志で。

ベースキャンプ。

そう。
私が戻る場所は、ベースキャンプなのかもしれない。
あくまで登山の途中。

今のルートではアタックに失敗したかも知れない。けれどベースキャンプに戻って、英気を養い、また別のルートで頂上を、或は別の頂きをそこから目指せばよいのだ。
少なくとも登山口と全く同じ状況ではない。連れもいるし、お金もあるし、義務もない。
まだ山登りできる体力もある。はず。

あとは、どう、登山する意欲をかき集めて、失わないか。そしてどんな山を登りたいのか、どんな風に登りたいのか、自分の心の求める物を、逃さないように見極めなければならない。