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特別じゃない金木犀

 夏が余韻も残さず去っていって、秋、というか冬の始まりのような寒さが殴りかかってきた。寒いのは本当に勘弁してほしい。そう思ったのもかなり前のことで、今はもう暖房をつけたりストーブの前に足を揃えて座るのが当たり前だね。私はとにかく寒がりで夏が大好きな人間なので、心から夏の暑さが恋しい。気温は高ければ高いほどいいし、日は長ければ長いほどいい。見た目や振る舞いではとても夏が好きそうには見えないらしい(すごい偏見で面白い)けど、夏ほど素敵な季節はないと毎年強く思う。海が好きとかフェスやお祭りが好きとか、そういうわけでもない。ちなみに私は「海は見る物、眺める物」と母親に教えられて育ったので、20歳になるまで海で泳いだことはなかった。毎日を普通に過ごすのに夏が最適なのだと思う。日が長いと安心だし、晴れは元気の源だ。

 日が短くなって、夜の風が冷たく乾燥してくると、本当に寂しい。冗談じゃなく泣けるくらい落ち込んでしまう。夏は「始まり」と「終わり」がはっきりしすぎているから悲しいのかもしれない。きっと夏休みのせいだな。メソメソしてしまう夏の終わりを少し我慢すると、私が(今のところ)世界で一番好きな香りが近所のあちこちに漂う。匂いを察知するとスンスンと深く息を吸ってしまう。金木犀の甘く柔らかな香りはどんな言葉を尽くしてもその幸福感を表現しきれない。私は人生21年目だが、金木犀ファン歴はかれこれ16年くらいだろうか。幼稚園の園庭に金木犀が生えていて、送迎のバスや母の迎えを待ちながらお友達と遊んでいると、甘ったるい香りが私たちを包み込むのだ。園庭に斜めに差し込む日の光は最後の力を振り絞るようにオレンジ色に輝き、夢のようだった。恐らく当時の記憶を美化しているし大袈裟かもしれないけれど、この楽園のような原風景を金木犀の香りを嗅ぐたびに思い出してしまうのだ。

 高校生のとき、駅ビルやショッピングモールに入っているフレグランス専門店で「金木犀の香り」の文字を見た時には思わず駆け寄ってしまった。茶色の小瓶の白いラベルには「Osmanthus」と書いてあった。モクセイ属の学名をオスマンサスというらしい。高校生だった私は、オスマン帝国に想いを馳せ、、るほど学がなかったがアブデュルハミト2世だとかアブデュルメジト1世だとかそんな単語をふんわり思い出したりしていた。アルバイトをしていない高校生が3000円の香水などを衝動買いできるはずもなく、10月末が誕生日のクラスメートのために1000円のハンドクリームを友人と割り勘で購入した。

 その時なぜ自分の分を買わなかったのか忘れてしまったが、それから2年後、大学生になった私はかつて友人にプレゼントしたハンドクリームを自分のために買った。その頃もまだ金木犀の香りの商品は珍しい存在だった。そしてそこからさらに1年時を進めて、去年の誕生日プレゼントに友人が私に香水をプレゼントしてくれたのだ。ついに憧れの香りを手に入れた私は、ウキウキ気分であらゆるところに香水を振りかけた。手首の内側や耳の後ろ、首元はもちろん、ハンカチ、枕、手紙にまで金木犀の香りを吹き付けていた。この香水も、本物の金木犀も、どちらも大好きだった。

 ところが今年の秋になって、なんだかもやっとした気持ちに気付いた。金木犀の香りを売りにした商品があまりにも多くないか?と。金木犀の香りはいつからか特別なものではなくなってしまったのだ。金木犀特集なんていう記事も見つけてしまったし、インスタグラムでの金木犀の開花情報(「金木犀咲いてた〜」という投稿)がやけに目に付くのだ。「同担拒否」とはこのことか。自分の傲慢な性格に驚いた。みんなが金木犀の香りが好きなのが嫌だったのだ。「私には16年も金木犀を愛していた歴史があるのよ!!」と叫びたいくらいだった。私ができるせめてもの抵抗は金木犀についてなるべく語らずに、大人な感じで金木犀を密かに愛すという作戦だ。ここに文章をしたためている時点で子供っぽさ全開なのだが、10年後に他の女性たちが金木犀の香りを忘れてしまっても私は死ぬまで金木犀に添い遂げる覚悟である。

 どうでもいいことに一生懸命になれることが私の一番の長所だ。

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