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もう普通が分からない(ユーモアと失言と)

吉野家幹部の失言問題が他人事とは思えなかった。

恥ずかしながら、あれは私が"面白い"と感じるものとそう遠くない場所にある発言だと思ったからだ。

あの通りの発言をしないから大丈夫というわけではない。

目先のウケを狙ってユーモアの一線を越えてしまい、日本中の敵になるしくじりはいつ自分がやらかしてもおかしくないと不安になった。

私は社会の現象や世の中の人々をカテゴライズして皮肉ったり、面白おかしく形容することに特にユーモアを感じてしまう。

振り返ると2年前、このnoteに初めて投稿した記事もそんな種類の話だった。

バッティングセンターに行った時に冴えない男性と容姿端麗な女性の2人組がいて、美女と野獣カップルを見ると、なぜか勝手に男性側にすごい何かがあるのだと想像してしまうという話。

しかも女性の方が随分積極的に話しかけてて、それも初対面の美容師と客みたいな距離感の会話で、もしやあれはレンタル彼女だったのか?みたいなことを書いていた。

3ヶ月前に書いた直近の記事もそうだ。

映画館に行ったらガラが悪くうるさい輩がいて、その輩のことを散々皮肉りながら形容した挙句、彼は自らの存在意義についてネガティブに考えたことなどないのだろうから、一周回って彼が羨ましいというような話を書いた。

いずれの記事も人のことを散々偏見でカテゴライズしている。

偏見を基にした差別はダメだと思っているけど、私はどうやら偏見をかなり面白いと感じてしまう性分らしい。

どこまでがユーモアで、どこからが到底擁護できないと身内から見放されてしまうラインなのか。

アスリートの金メダルを齧ったおじさんだって、他人の金メダルを齧ることが大顰蹙を買う行動であるなど1ミリも思わなかったからあんなことになったのだ。

自分が本当に"普通"の感性を持てているのか。

先日出先でマスクの紐が切れてしまった時、真っ先に心の中で「今の世の中でノーマスクなんて人権ないからなあ、これはどうしよう」と思った。

ある方の「人権ない」発言が大炎上した直後であったにも関わらずだ。あれほど大炎上した失言が当たり前のように自分の頭によぎるんだとゾッとした。

以前は失言問題を見るたび、頭の中でブレーキが効かない人が問題を起こしたんだなぁと思っていた。

教訓は「ちゃんと自制心を持とう」「人を傷つけそうな事を大勢の前で言うのはやめよう」などだった。

ただ最近はその手のニュースに「お前は本当に"普通"の正しい感覚を持っているのか」と試され、問いただされているような気分になる。

教訓は「これが世間から見ると"間違えた"感覚なんだな」。

溢れんばかりに反面教師が出てくる。失言問題のほとぼりが冷めたら、また次の失言問題。

自分の感覚と世間の感覚が思いもよらず全く違う可能性は誰しもにある。みな自制心がないから失言や問題行動をしてしまうわけではない。

先に地雷を踏んでくれた人がいたおかげで、自分は踏まずに済んだ地雷はないか。

明確な悪意のない失言や問題行動は、きっと時代がどれほど新しくなっても、過去と全く同じ種類の地雷を踏みにくくなるということだけであって、この世から消滅する事はないんだと思う。

これからも週に1回か、それより多いくらいの頻度でたくさんの失言を聞いて、たくさんの問題行動を見て、同じ轍は踏まないと思い続けるしかないのだろうか。

ただこの流れがあまりに加速していくと、ゆくゆく影響力のある人たちは天気の話しかしてくれなくなるのではないかと心配している。

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