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ありもしない美談を

先日、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦である男性がスタンドに入ったホームランボールを少年から奪い取ったとして炎上していた。

この男性の法定代理人は、どうやら「奪い取っていない」と主張しているので、迂闊なことは言わないでおくが、とりあえず炎上のきっかけが男性が少年からボールを奪い取ったと見られたことだった。

映像だけならボヤ騒ぎで済んだのかもしれないが、男性はそのホームランボールを捕ったことをTwitterに投稿していた。

スポーツ中継網の充実と現代SNSの狂気的な正義の暴走が噛み合い、わずかな時間で当該男性の本名特定まで行き着いてしまうという、1億総監視社会を強く感じさせられる出来事であった。

ここから先、逐一「男性は奪い取ってないと主張している」と前置きを書くと長くなってしまうので、炎上時の見られ方を前提として話す。

私はこの件について批判されるのは「ボールを人から奪い取ったこと」に限定されるべきだと思っている。

当該シーンに対する批判の多くに、「"少年に"ボールを譲らなかったこと」を問題とする指摘があり、そこから派生し「野球場のボールは子供の手に渡るべきだ」、「大人は手にしても、近くにいる子供に譲るべきだ」に近しい言説が飛び交った。

これまで野球観戦に数百試合単位で行っているが、ホームランボールやファールボールを手にしたことは1度しかない。野球場でボールを手にすることは、それほど稀なことである。

私は見た目こそ大人になったが、自分の手元に来たそんなボールを、咄嗟の判断で近くの席にいただけの縁もゆかりもない子供に譲れるほど精神的に大人だろうか。

こんな批判が飛び交うことに複雑な思いを抱えながらも、興味深くも感じた。

これまで野球場でたくさん子供達も見てきたが、中にはボールを譲りたいとは思えないようなマナーが良くない子供もいる。別に野球場に限らず、マナー面に難を抱える子供たちは街中にいる。

だけど特定の話題になった瞬間、子供全体が神聖視され、マナーの悪い子はさも存在しないかのように扱われているような印象を受ける。

不倫のニュースの時は、受け手は過剰に美しい夫婦像や家族像を勝手に作り上げる。おしどり夫婦として露出のあった人ならともかく、そうでない人にまで。

あれは本気で当事者家族が一番の被害者とすると、報じないことが何よりの救いであるように思うのだが。世間的な見られ方に加え、場合によっては世帯の稼ぎが大幅に減ることに繋がるのだから。

企業の不正が発覚したとき、部活動で不適切な指導があったとき、著名人の失言があったとき、中高生のいじめが報じられたとき、受け手は綺麗すぎる理想像を作り出す。

「経験から想像できる範囲で語ってる」ともまた違う、むしろ実体験からは外れてそうな理想像。

勝手にそれを基にしたストーリーを作り出し、当てはめ、批判に用いる行為をなぜやってしてしまうのか。

報道の影響か、広告の影響か、幼少期からの道徳教育の賜物か、問題を分析する探究心からか、無意識的に類型化を積み重ねた結果か、分かりやすい正義と悪に二分した方が批評しやすいからか、自分は正義だ、正しい感覚を持っている人間だと安心したいからか。

あの究極の理想像って一体何がモデルなんだろう。

正義は怖い。どんなに暴走しても、正当な根拠という後ろ盾がある。

桃太郎で鬼がとっちめられているように、正義の道を踏み外したものには然るべき制裁が与えられるべきなのだ。

野球場でホームランボールと共に炎上リスクが飛んでくる時代、みないつ鬼になるか分からない。

鬼側のバックグラウンドなんて、読者は知ったこっちゃない。鬼は鬼らしく宝を奪って豪遊していたに違いないのだ。

それにしても鬼は桃太郎に宝を元の状態で返せるほど宝の保存状態が良かった。すぐに豪遊せず大切にしてて、案外堅実だよなとこれを書いていて思った。

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