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愛と自己犠牲

最近になって私は「愛の象徴は自己犠牲である、私利私欲は放棄しなければならない」という価値観を強く持っていることに気付いた。

なんて清廉潔白な価値観だろう。まさかこんな倫理観に満ちた聖人君子のような考えを持ってると思いもしてなかったので、自分でもびっくりした。人に押し付ける気は全くなくて、自分で勝手に思い込んでるだけ。

結婚式で神父が言ってそうな冒頭で、このあと素晴らしい講釈でも続くのかという入りだが、そういう話ではない。

むしろ私が今結婚願望や恋愛願望が薄いのは、この価値観に起因していることに気付いたのだ。

自分はおろか、他人の結婚や出産に対して「おめでとう」より先に「大変だと思うけど頑張れ」と思ってしまうところがあった。

「なんでそんな嫌なこと思ってしまうんだろう、自分で自分が嫌だ」と思っていたのだけど、それは私自身が愛=自己犠牲であり、私利私欲からの卒業と捉えているからだと妙に腑に落ちた。

29歳目前で交際相手がいないと、何かと理由を聞かれる。

そりゃ需要がないからだよ、売れない芸人やバンドに「なんで売れないの?」って聞いてんのと一緒だよと一蹴してしまいたくなる。

けど、自分なりに理由を掘り下げていくと「私利私欲に満ちたオフの自分がバレて、失望されたくない」と思い、かなり意図的にそうしたものを遮断している気もする。特に結婚適齢期になってからそれは顕著だ。

「いやそういう願望全然ないのよ〜笑、趣味で時間たくさん使ってるのと、1人でユニバ行くくらい一人遊びが好きで…」と、かなり早い段階で言わないと気が済まない身体になっている。

愛は自己犠牲、この価値観のせいで自己嫌悪に陥っててるけど、世間に溢れるほっこり話、幸せ話、不満話、破局話、不倫話…私にとっては例の価値観が強化されるものばかり。

例えば、Twitterで定期的にバズってる野原みさえがひろしの給料1ヶ月分をなくしたときの話とか。

この妙に綺麗な価値観は自発的に生まれてなくて、理想"とされる”家族や彼氏彼女像と、そうじゃない"とされる”像をいろんなメディアで必要以上に見て、集約して作り上げたに過ぎないのか、もしかして。

そしてそれができる気がしない、仮にやってもどこかで限界を迎える可能性が極めて高い。仕事終わりに思い付きで野球観戦やスパに行ける人生を少なくとも今は続けていたい。

私利私欲が貫き通せるほどの市場価値はないのに、貫きたいのならパートナーを作らずに生きた方が世の中にとって良い。

といった感じで、頭の中の聖人君子と煩悩の塊がバトルを繰り広げていることに、最近気付いたのだ。

所ジョージくらい陽気な性格になってないと成立しないくらい好きなことをやっているのに、自虐を抱えている。自分でも意味が分からなかった。

これまで煩悩の塊ばかり認識し、聖人君子の方を認識してなかったから、すごく合点がいった。

こんなことを考えていたので、ちょうど今週のオードリーのオールナイトニッポン(2023/6/10放送分)で若林さんが山里さんのことを持ち出して「劣等感は怖い、物事を主観で(変な見方に)変えちゃうから」と言ってたのがやけに刺さった。

いいオチが見つからないので、今週のだが、情熱はあるも楽しみだな、として締めくくる。

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