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書くことと生きること

「私たちはいうべき秘密をたったひとつしかもっていないから、しかもそれが筆舌には尽くしがたいものだから、際限なくおなじ本を繰り返し書くのだ。」(クロード・モーリアック『忘却』より)

別の本の引用から始めるという暴挙。それでも、この「いつも手遅れ」を読んでいる時、幾度となくこのモーリアックの言葉を噛みしめたくなったのだ。読み終えた今、この言葉にまた別の魔力が宿ったように思える。

本書は18人の差出人からの手紙を集めた書簡体小説。タブッキらしい暗示にみちみちて、それらは受取人(読者)によって、気分によって、時間によって、全く違うものをこちらに見せる。難しく考えて解釈しようともがけば迷宮化するが、そのことを受取人に強要はしない。だからタブッキの暗示は美しいのである、と思っている。

(物理的に)今ここにはいない大切な人に宛てられた手紙は、とるにたらない、差出人の個人的な“物語”のようになっている。直径が50kmもない島の話、あなたに会いに行くまでに出会った人や出来事の話、もう大きくなった子どもたちの話…。そして突然こう投げかけられる。

「愛する人、知らない街の宿屋の引き出しに、自分の人生について書かれた本をみつけるなんて、物語のくだりみたいだと思わないかい?きみは、いったい私に何を書いているの?と言うかもしれないね。ぼくはこう答えてもいいだろう、誰がぼくを書いているんだ?と。たしかに、結局のところ、誰がぼくを書いていて、ぼくはきみに何の話をしているんだろう?」(『人生の奇妙なかたち』)

本当に言いたいことが中心にあるとしてその周りをぐるぐるする感じがサリンジャーだとしたら、タブッキの場合は、ほんとうに言いたいことが中心には存在しなくて、姿形もなくて、ただ、「今書かなければならない」という、差出人それぞれの差し迫った感じ、抑えきれないナニカ、長年封じ込めてきたものを終に解放してやるときの震え、そんなものでしか伝えられないエーテルのようなものを発している、という感じがする。

タブッキの本から発散したエーテルは、今読んでいる“ここ”から、私たち自身の遠い過去やとるにたらない出来事、他の本や美しい思い出へ連れ出す。だからタブッキを読む時はなんとなく多重層なんだろう。





ここ最近、いっちょ前に哲学やらその周辺の文学を読んでいたから、タブッキが余計に沁みた。タブッキは彼らと全く違って、書くことと生きることが渾然一体となっている作家なんだとしみじみと思った。

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