見出し画像

徒歩旅行論の萌芽的研究:わたしたちをつなぐライン

歩行は、実にありふれた行為であるがゆえに、いかに自分たちを規定し、世界との関わりを紡いでいるのか、それほど着目されてくることはなかった。しかし、人類学やアートといった文脈から、近年「歩く」ということに注目が集まっている。この流れの中心には社会人類学者ティム・インゴルドの『ラインズ 線の文化史』に続く一連の著作群の存在がある。

我々はこのインゴルドの「徒歩旅行論」に影響を受け、この度、「世界徒歩旅行研究会」なるものを立ち上げ、その第一回展覧会を2023年京都で行う運びとなった。メンバーは、美術家の来田広大(きたこうだい)、山本聖子(やまもとせいこ)、写真家の吉本和樹(よしもとかずき)、ラテンアメリカ研究家・人類学者の荒井規向(あらいのりひさ)、そして最近参入した疫学・公衆衛生学研究者の土生裕(はぶひろし)である。

写真I:クスコ近くのモライ遺跡の同心円状のライン(2019年著者撮影)

インゴルドの徒歩旅行論

最初にインゴルド(2014)における移動のラインについていくつかの用語を確認しておこう。詳細を読みたい人は前掲著書『ラインズ』の中の特に第三章「上に向かう・横断する・沿って進む」をご一読いただければと思う。この章は、移動のラインを考えるときに、徒歩旅行wayfaringと輸送transportという2つの異なるライン生成が存在しており、この対立する二項の特徴を説明していくという構成になっている。曲線的でフリーハンドかつ自由なラインとしての前者、2点を直線的につなぐような目的地志向のラインとして後者が存在し、属性の違った移動の方法が存在することが明らかにされる。さらに、特に前者のラインが重なりあい、織り合わされ、網目のごとくもつれあう状態を網細工(メッシュワーク)という。

徒歩旅行のラインのもつもう一つの性質を理解する一例として、オーストラリアのワルビリ族のドリーミング(夢見のとき)を線で表現した螺旋状の同心円が直線で繋がれた図(図I)に注目したい。

図I:ワルビリ族の線描画(インゴルド 2014: 158)

これは徒歩旅行というものが「場所なきものでも場所に縛られたものでもなく、場所をつくるものである」(2014: 162)という事実を示す具体例である。移動は、動くだけではなく、そこにとどまり周回することで、場所をも作り出すということだ。この点に関連し、歴史学者の保苅実は、アボリジニ社会の移動に関して、興味深い分析をしている。

だから、中心概念なしに、数多くの人々や聖地やコミュニティやカントリーがネットワークをつうじて結びついているような、そんなグリンジの世界観のなかでは、移動が決定的に重要となる。生ける世界は、ドリーミングや人間やカントリーや儀式が、つながりの網目をつうじて維持されているのである。

(保苅 2018: 86)

もちろん、メッシュワークはアボリジニのドリーミングに限定される事象ではない。例えば、自分の研究して来たフィールドに引きつけて考えるのであれば、インゴルドのメッシュワークの視座はアンデスのアイユ(ayllu)というテリトリー・親族・交換・生産形態をめぐる概念につながる。その証左なのか、メッシュワークについての説明の中で、インゴルドもベンジャミン・オルロヴのチチカカ湖周辺の研究調査を引用している箇所がある。以下は、オルロヴの「土地に張り巡らされたラインのクモの巣」に関する説明である。

やっと1メートルほどの幅で、動物や男や女や子供の足で踏みつけられ、踏み固められている。子供達は三才か四才で、親戚の家までの短い散歩であれ、遠く離れた牧草地や市場への半日がかりのハイキングであれ、大人に遅れまいとして文句も言わずに小走りでついていく。そうしたラインのいくつかは、つるはしやシャベルを用いて作業する村人たちによって実際に地面に引かれている。なかには五メートルほどの幅をもつラインもあり、時折、車やトラックがそこを通っていく。

(インゴルド 2014: 132)

ここからは、この偶然つながった思索のラインをアンデスのアイユ、特にボリビアのコミュニティ生活実践を参照しながら少々考察してみたい。

アイユのライン

アイユとは、キチュア、ケチュア、アイマラ人などを中心にアンデスのコミュニティ形成の核となるもので、インカ帝国時代にはいわゆる垂直統御の形態として、標高の違うコミュニティで生産物を多様化するという経済的分業関係でもあり(Murra 1975)、現在にも続く二重住居と呼ばれる季節ごとのコミュニティ移動形態でもあり、婚姻をめぐる親族関係でもあるという、重層的な間コミュニティ相互依存関係を指すものである。

残念ながら、スペインによる征服と植民地期、そして以後の各国政府の同化政策の一環でアイユは歴史的に改変・解体されてきてしまったので、今日のアイユの姿をスペインによる征服以前のものと同列に語ることはできないが、それでも形を変えながらも今に残るアンデスのコミュニティ形態として知られている(Guzmán 2011)。こうした歴史的逆境にありながらも、80年代のポトシ県の北部などでは「民族経済」と名付けられた、アイユ内での特殊なコミュニティ内組織形態が存在していたことが人類学者オリヴィア・ハリスの調査から明らかになっている (Harris, 1987)。今回は歩行というテーマに絡めて、このアイユ内のいくつかの事象に着目したいと思う。

写真II:チチカカ湖のタキレ島(2011年著者撮影)

まず、ムユ(muyu)という周回を指す言葉の存在は興味深い。アンデスにおいてはサイクル的に全てが循環しており、アイユや村の役職の循環もムユであれば、村々を巡回して周る行為もムユと名付けられている。アイユの民主主義はこの循環によって担保され、アイユ内の代表となるコミュニティは輪番制で決まっているからだ。チョケの研究(2000)によれば、アイユの現状確認と村落内の問題認識共有のために、役職が各戸を巡回する風習もムユと呼ぶ地域がある。これはもちろん基本的に歩行しての巡回であり、コミュニティ間の距離なども考慮すれば、かなりの長距離を徒歩移動しながら、各戸を回っていることになる。この手間がアイユ内の民主主義を支えているのだ。

また、前述のハリスの「民族経済」においては、ポトシ北部のライミというアイユにおいて標高の高いスニ村と標高の比較的低いリキーナ村の間で家畜リャマを中心にキャラバンを組んで行き来し、農作物や畜産物を交換していた。例えば高地ではジャガイモやチュニョ(ジャガイモを高地の寒暖差を利用して乾燥させたもの)を生産し、中腹のリキーナではトウモロコシを生産し物々交換するといった具合である。この移動は数日間にわたり、家畜と人間の歩行を中心として、コミュニティ間の相互依存関係が成立していたことを考えると、関係をつくるものとしての歩行というインゴルドのイメージがよりよく理解できる。

さらに、アンデスにおいて、歩行は祝祭にも密接に関わっている。著者はコミュニティ自治の研究の一環でナシオン・カラカラというボリビアのチュキサカ県とポトシ県をまたぐ先住民グループにインタビューを行ったのだが、そのグループに属するユラ村を含むハトゥン・アイユ・ユラでは毎年盛大なカーニバルが行われている。我々が考える祝祭のまさに典型例とも言えるカーニバルだが、ブラジルにおいても、ボリビアにおいても、メキシコにおいても、共に踊りながら「歩行する」ということに重点が置かれていることは明らかである。

このユラの地で研究をしていたラスナケ(1986; 1990)によれば、カーニバルの参加者たちは、アイユの境界となる聖なる山の道標まで徒歩で向かい、行った道とは別の道を通ってユラの中心に帰ってくる。この時、行く先々の村で儀礼と舞踊を奉納し、伝統音楽を盛大に奏でながらその地の人たちと飲食をともにする。ユラのアイユに住む人々は、親族や仲間たちと村々を練り歩き、直線的な近代システムに規定されない自分たちのラインを引く。翌年もまたその翌年も違った線をたどりながら、反復と差異の中で自らのテリトリー意識を再確認する。このことはユラが地域初の自治アイユとして政府から法的認定を受けたということと密接につながっている。場所をつくる、物語をつくるメカニズムがあってこそ、先住民自治への渇望は生まれてくるし、有形・無形のコモンを自主的に管理していこうという意思は受け継がれていく。

写真III:チャラサーニ付近の塚(2018年著者撮影)

アンデスのもう一つの徒歩旅行のラインは、放牧によるものである。羊やヤギ、アルパカなどの進む道を、羊飼いたちが追って行く姿はアンデスではおなじみの風景だ。一見自由に進んでいく家畜だが、実際は他の誰かの土地に入って農作物を食べたりしないように細心の注意が払われている。土地をめぐる取り決めは村会議で細やかに決められ、それが慣習法に基づく村役場の役職の重要な仕事の一つとなっている。仮に人の畑などに家畜が入って野菜などを食べてしまった場合は補償をしなくてはならない。
 
放牧のラインを間近に見たのは、チャラサーニの近くのニーニョ・コリンという村に居候させてもらったときのことだった。滞在3日目、まだ何を聞くべきなのか質問も定かでない状況の中で、たまたまヤギの放牧に家主のおやっさんと一緒に行くことになった。霧で視界が霞む中を勢いよく進むヤギ達の後をついていく。村を出ると比較的自由にヤギ達は動き出すようになり、おやっさんも座って携帯をいじったり、以前に来た来訪者の話を聞かせてくれた。

後ろの小高い丘を登ると霧の先に佇む村の教会が見えて、少し寒さを凌げるかと思い教会へと近づいていった。あいにく教会は閉まっていて、入り口には南京錠がかけられていた。驚いたことに、その南京錠には漢字で「地球」と書かれていたのだった。グローバル化ゆえの偶然だと思うが、日本から見て地球のほぼ反対側のボリビアの山奥で、「地球」という言葉が自分の奥底まで響いて、「ああ、本当に遠くまで来たんだな」と思ったことを今でもよく覚えている。

写真IV:ニーニョ・コリンの教会(2018年著者撮影)
写真V:扉の「地球」印南京錠(2018年著者撮影)

歴史認識と贈与としての歩行

さて、ここまで記述して来たことを踏まえると、歩くことは歴史認識につながっているという点がまず指摘できるのではないだろうか。それは歩行が「道」という概念に不可避的に接合されているからなのかもしれない。自然に暮らしが近い地域では、誰も通らなくなった道は雨水や草の間に消えゆくものだ。アンデスのクモの巣状に張り巡らされていたはずの小道も、交通の利便化が進めば消えていってしまう。だからこそ、ラテンアメリカでは、雨季には小道の手入れをしなければ、すぐにその道がどこにあったのかも見えなくなってしまうのである。道を整備すること、それは現在にまで及ぶ先住民コミュニティの重要な共同労働の一つである。

メソアメリカではこの共同作業をテキオと呼ぶ。著者も何度か山刀やシャベルを持ってこの作業に加わったことがあるが、なかなかの重労働だ。全身が悲鳴をあげる頃に仕事が終わり、仲間達と一杯やりながら、うわさ話をしたり、からかいあってはバカ笑いする。アンデスでは、こういった共同作業をミンカと呼んでおり、コモンの管理をめぐる共同労働と共生の感覚に「善き生」(ブエン・ビビール)を感じられるモーメントが存在することが民族誌的記録からも明らかになっている(Mamani 2012)。この共同作業も歴史の中で反復されてきたものであり、ゆえに道は維持され、コミュニティの歩行のラインが担保されているのだ。

つまり、道の存在には過去が凝縮されており、その上に我々は現在を作っている。そしてこの背景にある物語を認識することは、次に自分が贈与的行動を意識的あるいは無意識的に取ることができるトリガーとなっている。すなわち同じ道を歩き整備してきた先達に思いをはせることは、次に来る世代に視点を向けることと密接につながっている。「もらってしまった」という実感は、今世代を生きる人間の義務となり倫理となって、贈与の連鎖を生み出す。先住民コミュニティ内部で日常実践の中に贈与的関係がよく見えるのは、反復を繰り返す中で主体が繋がるラインを生み出す装置を先住民自治が備えているからだろう。ゆえに、徒歩旅行が自由に描く線のありようは、マルセル・モースの重点研究テーマの一つであった「贈与論」にも繋がっているのではないだろうか、というのが今回提起しておきたい視座である。

身体的技法としての歩行

ここでモースの話が出てきたのは偶然なのであろうか。奇遇なことに身体技法としての歩行を社会学の視座から分析したのも他ならぬモース(1972)であった。『社会学と人類学』において、モースは社会学・人類学的知見の蓄積を元に、走法、泳法、歩き方、行進の方法などが、いかに各社会の規範によって規定されているのかを指摘している。贈与論でも明示した全体的社会的事実(ある現象が一つの分野に限定されず横断的に成立していること)を援用し、身体技法においても社会学や解剖学や生物学といった視座のみに分化されない「全体的人間」像が提起される。それもそうだ。歩くというのは全事象的な行為なのだから。歩行はただの身体運動にはとどまらず、移動を通じて、我々は常に外を観察し、時の変遷を五感で感じ、外界と自分の距離を再確認する。 

日本にも「ナンバ歩き」という歩行技法が存在し、それが近代以前は一般的であったという説もあるほど、日本人の歩行をめぐる技法にも以前は違いがあった可能性があるという。西洋的な近代化というものが歩行技法の各国での(一定レベルまでの)均一化をもたらしてきた。その流れに並行して、道というものも必ずしもプラスなものではなくなってきたのではないだろうかと思ってしまう。都市を歩くとき、どうしても区画が我々の動線を規定してくる。それをインゴルドは「占拠」のラインと呼ぶ。

「こうでなくてはならない」という言辞は構造主義とポスト構造主義によって乗り越えられたはずなのに、区画の決まった都市においては相変わらず「こうでなくてはならない」というラインが規定されたままだ。私的所有の前に、通行できない場所が都市には溢れかえる。この上からの線の策定に抗するもの、抗するための技芸(アート)はなんだろうか。端的なもので言えばパルクールの存在がある。パルクールは、都市の定めた動線としてのラインを超えて、地図的平面のみならず、高低差という三次元にも厚みのある走行ラインをもたらす。

また、空間ということで考えれば、ラテンアメリカにおいてバリオ(地区)の中のカジェ(道)は時にフィエスタ(祝祭)に占拠される。メキシコでは近隣住民のお祝い事のために区画の一部が住民によって閉鎖され、ハキム・ベイ(2019)やディヴィッド・グレーバー(2016)の言う一時的自律圏(Temporary Autonomous Zone)が突如成立することはよくある話である。都市空間であっても、祝祭の中で、所有や占拠のラインを超えた日常的抵抗の技芸(ド・セルトー 2021)という逃走線を用意することができる。

哲学としての歩行

電話している時、誰もが無意識的に歩いていないだろうか。会話中、部屋の中を、ベランダをぐるぐるとずっと歩き続ける。そう思えば、研究に関連した内容を考えている時もそうかもしれない。煮詰まっている時など、少し歩いてみたりする。逆に閃きを得た時は身振りも加えて歩いたりもしている。プレゼン資料を作った時も、一度歩き回りながら発声して練習してみなくては繋がりがうまくいかない。これは歩くことが思考の作法と密接につながっているからであろう。古今東西の哲人たちもまた、散歩を思索の時間・空間として活用してきた。歩行は連想と結びつきやすく、移りゆく風景は豊かな思惟の時間をもたらす。

レベッカ・ソルニット(2017)は哲学者たちと歩行についての関係をアリストテレスの逍遥学派の時代から一部思想家の実例を引きながら説明している。中でも、歩行することの哲学的枠組みを作ったとしてルソーを評価し、ルソーが生涯の終わりに書いた『孤独な散歩者の夢想』を参照する。先程までの場を作る歩行とは対照的に、ルソーの徒歩旅行は、孤独な人間としての散歩者の立像を映し出す。

孤独な散歩者は世界の中に存在しつつも、そこから離れている。そこにあるのは移動する者の孤立であり、労働者や居住者といった集団の一員が帯びる紐帯ではない。歩くことはルソーが選びとった存在の様式だったのだろう。歩行のなかでは思惟と夢想に生きることができ、自足することができ、それゆえ自らを裏切ったとルソーが感じていた世界を生き抜くことができるのだ。

(ソルニット 2017: 39)

前掲書の中の「第五の散歩」においてルソーは、ビエンヌ湖のサン・ピエール島での歩行と休息の間に得た幸福を以下のように述べている。

それにしても、魂が安立の地盤を見いだして、そこに完全にいこい、そこにその全存在を集中することができて、過去を想起する必要もなく、未来に蚕食する必要もない状態、魂にとって時間が無に等しい状態、現在が永久に持続しつつ、しかもその持続を標示することなく、なんらその持続の痕跡を止めることなく、欠乏感も享有感もなく、苦楽の感覚、欲望危懼の感覚もなく、ただあるのは、われわれの存在しているという感覚だけ、そして、この感覚が全存在を満たしうるような状態がつづくかぎり、そこに見いだされるものこそ、幸福と呼ばれうるのである。それは、人々が現世の快楽の中に見いだす幸福のような、不完全で、貧弱で、相対的な幸福ではなく、充実した、完璧の、満ちあふれた幸福である。それは、魂がいっぱいにしてもらう必要を感ずるような空隙を、その中に一つだに残していない幸福である。僕はサン・ピエール島で、孤独な夢想にふけりつつ、しばしばこのような状態にあったのである。波のまにまに流されながら、小舟の中に寝ころび、あるいは、潮騒の湖岸に坐り、またあるいは、美しい大河や、せせらぎの呟く渓流のほとりに座って。

(ルソー 2006: 102)

瞬間的に訪れる無我の喜びを、ルソーは孤独な思索の中で見出した。対照的に、中南米先住民の無我の瞬間たる「善き生」は、コレクティブに共同寄託が行われている瞬間に生起する。個人主義と集団主義の極地に、歩行という動きが介在する中で、人生の幸福な瞬間というものが定義される事実は示唆に富む。

今回第一回研究会・展覧会が行われる京都にも「哲学の道」という場所が存在することは多くの人が知るところだろう。京都学派も西田幾多郎を筆頭に散歩を思索活動の一つとして活用していた。そう、古今東西哲人は歩き続けてきたのだ。

抵抗としての歩行

歩くことは抵抗することである。何への抵抗なのか、と疑問に思う方も多いだろう。端的に答えるのであれば、資本主義システムにだ。大加速時代という言葉があるように、資本主義は交換速度を上げ、よりスピーディに蓄積ができるように、これまで交通機関やネット社会などを生成し続けている。点と点をいかに早く連結させるのか、待ち時間をいかに減らすのか。これは資本の至上命題だ。インゴルドは言う。

歴史の大半は、より速い機械的手段を考案することによって、ぼんやりした間隙の時間帯を減少させようとする試みに費やされてきた。原理的には、輸送のスピードは際限なく増大する。もしも完璧なシステムが完成したら旅行者は瞬時に目的地に到着できるだろう。しかし現実には、同時にいくつもの場所にいることは不可能なのだから、完璧な輸送はあり得ない。システムには必ず摩擦が存在する。かくして時間とともに運動する徒歩旅行者とは違って、輸送される旅行者は時間に逆らって急ぐ。その経路のなかで彼に見えるものは成長への有機的潜在力ではなく、自分の乗っている移動装置の機械的限界である。なんとかすれば今ある連結のネットワーク全体のあらゆる場所に同時に到着できるはずなのに・・・。実現不可能な理想に駆り立てられているからこそ、現代人はひとつの地点から別の地点へと急ぎ、あらゆる場所に同時に到着しようと試み、当然のことながら挫折する。所要時間とはいらだちを測る尺度である。

(インゴルド 2014: 164)
写真VI:植民地と資本主義の収奪構造の象徴たるポトシ銀山は坑道とふもとを結ぶ無数の人工的なラインで切り拓かれていた(2020年著者撮影)

徒歩旅行者のつくるラインは、「連結器」とは対照的に、システムの作り出す直線的な線に、遊動的な逃走線を描く。この自由なラインにこそ自由な「瞬間」を生きられるヒントが詰まっている。メキシコの哲学者であるコンチェイロ(2016)は、加速する社会に対し、先述の「瞬間」に着目して、「抵抗的逸脱」という概念を提唱している。この抵抗的逸脱とは、近代的で目的論的な直線から徒歩旅行者のようなラインで逃走線を引いていく作業であり、徒歩のもつ社会政治的可能性を示唆するものである。徒歩旅行のラインという寄り道的かつ曲線的なラインの存在に改めて注目することは、区画がきっちりと割られた都市においても思いがけない線を引くことはできるのだと、我々に勇気を与えてくれる。

終わりに:共にあるための歩行

原始より2足歩行を始めた人間は、常に歩みながら生きてきた。しかし、現代社会にあって、特に都市部に住む人間にとっては、歩くということが以前に比べ極端に減ってきたのではないだろうか。近代以降の機械化・効率化で、交通機関の利便性と切り離せなくなりがちな移動は、直線的で単調なものとなってきてしまった。さらにネット社会と関連サービスの拡充の中、歩行不要な時代の流れはコロナ禍でさらに拍車がかかり、人類の新たな身体技法の時代の到来を予言するかのようだ。だからこそ、この時代に歩くということを再考する必要があるのではないかと、我々の間で意識を共有してきた。

ルソーのように一人での散歩の中に幸福を見出すのか。あるいは中南米の先住民のように共生の中に幸福を見出すのか。どちらにも確かに幸福があるように我々には思える。実際に、旅の中において一人の時間を大切にする人は多い。だが、旅ができるのは帰る場所があるから、という逆説的な条件がそこにはあることを忘れてはいけない。孤独な旅の中にあっても、遠く離れたところにいる誰かのことを我々はよく考えている。それなら、仮に一人で歩いていたとしても、歩くということは常に「共にある」ことなのではないか。

「共にある」という観点で言えば、徒歩旅行者の軌跡は不可視のメッシュワークを形成するのみならず、誤配の契機を生み出す可能性を有しているとも言える。つまり、関係は日常の何気ない一歩から始まるのだ。さらに、徒歩旅行者のラインにある面白さはその生成のプロセスにこそあるとインゴルドも指摘している。

重要なのは終着点などではない。それは人生も同じだ、面白いことはすべて、道の途中で起こる。あなたがどこにいようと、そこからどこかもっと先に行けるのだから。

(インゴルド 2014: 258)

インゴルドが言うように、我々もまた終着点を求めているのではない。歩くという行為について研究していくことは、常に「生きるということはどういうことなのか」という根本的な問いを内包する。その思索の糸をたぐるため、今日も我々は歩く。

参考文献

日本語
ハキム・ベイ(2019)『T.A.Z.第2版—一時的自律ゾーン、存在論的アナーキー、詩的テロリズム』インパクト出版会
ミシェル・ド・セルトー(2021)『日常実践のポイエティーク』ちくま学芸文庫
デイヴィッド・グレーバー(2016)『負債論 貨幣と暴力の500年』以文社
保苅実(2018)『ラディカル・オーラル・ヒストリー オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』岩波現代文庫
ティム・インゴルド(2014)『ラインズ 線の文化史』左右社
マルセル・モース(1973)『社会学と人類学』弘文堂
ジャン・ジャック・ルソー(2006)『孤独な散歩者の夢想』新潮社
レベッカ・ソルニット(2017)『ウォークス 歩くことの精神史』作品社

スペイン語
Choque, María Eugenia. (2000). La reconstitución del ayllu y los derechos de los pueblos indígenas. En: García, Fernando. (coord.) Las sociedades interculturales: un desafío para el siglo XXI. FLACSO Ecuador.
Concheiro, Luciano. (2016). Contra el tiempo: Filosofía práctica del instante. Barcelona: Editorial Anagrama.
Guzmán Boutier, Omar Qamasa. (2011). Apuntes acerca del sistema de cargos en los ayllus bolivianos. En Temas sociales, Número 31. Instituto de investigaciones sociológicas “Mauricio Lefebvre”, pp. 201-241.
Harris, Olivia. (1987). Economía étnica. La Paz: Editorial Hisbol.
Mamani Pacasi, Rolando. (2012). Jesús de Machaca. El Vivir Bien en clave aymara: identidad, tierra y comunidad. En Vivir Bien, significados y representaciones desde la vida cotidiana. La Paz: Fundación PIEB.
Murra, John. (1975). Formaciones económicas y políticas del mundo andino. Lima: Instituto de Estudios Peruanos.
Rasnake, Roger. (1986). Carnaval in Yura: ritual reflections on ayllu and state relations. En American Ethnologist, Volume 13, Issue 4, November 1986, pp.662-680.
Rasnake, Roger. (1990). Autoridad y poder en los Andes: los Kurakuna de Yura. La Paz, Bolivia: Editorial Hisbol.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?