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第1章 チアパス:自治・自律への意志と構造的暴力の狭間で


チアパスとEZLN

 講義にモグリで入った一年は、初めてのメキシコシティ暮らし、久しぶりの大学生活と、とても充実した時を過ごしました。当時は毎日授業に行くのが楽しみだったのですが、翌年UNAM(ウナム)に本入学して研究も半ばに入ると、そろそろ生活レベルでの非資本主義的実践をこの目で見てみたいという気持ちでうずうずしている自分が抑えきれなくなってきました。マルクス主義が基礎知識として議論される批判的土壌において、激論を交わすのは素晴らしいことなのですが、僕ら研究者を含む都市生活者の実践が棚上げにされていることがどうしても納得できず、高踏理論(ハイ・セオリー)ではなく、もっと地に足をつけた議論を展開したいと自分なりに模索する日々が続きました。

資料1 チアパス地図(Google Mapsより著者編集)

 幸いにも、ラテンアメリカ研究科修士課程では第3セメスターに半年間フィールドワークや文献資料収集に、自らが研究対象とした場所に交換留学なり、研究滞在をしていいことになっています。そのため、その留学制度を利用して、チアパス州の古都サン・クリストーバル・デ・ラス・カサス(以下サン・クリストーバル)という場所に研究滞在をすることに決めました。日本人の滞在経験がある方にはサンクリと略されて呼ばれている、あの街です。先住民コミュニティがとても近い場所で、主にマヤ系のツォツィル語(tzotzil)やツェルタル語(tzeltal)が最も頻用されている、山あいのコロニアル都市。1994年にEZLNが武装蜂起した時に、一時的に占拠した町の一つでもあります。
 チアパスの概況を理解するにはその「歴史的忘却」ともいうべき不在感をまず理解する必要があると思います(Aubry, 2005)。しかし、それは正史の中での不在感であり、その薄い存在感はある種の無法地帯としての、つまりスペイン人入植者(後には大農園主)たちがやりたい放題できる場所としての性質を示すものでもあります。19世紀になると大農園に多くの土地が接収され、その後も独立やメキシコ革命の恩恵を受けることなく、先住民の隷属状態は続きます。カルデナス政権期になってから土地の割譲が進んだとも言われますが、アクセスが悪かったり栄養分の乏しい土地であったりしました(Núñez, et al., 2013: 38)。州全体としては広い面積を持ちながらも、先住民や農民にとっては農地の確保が常に最優先課題となってきたということをまず理解しておくことがEZLN登場の背景を理解する上でとても重要です。 
 EZLNは複雑な形成の歴史を持っていますが、その組織結成自体は1983年に遡ります。60年代後半〜70年代の都市部学生運動への弾圧により、地方でのゲリラ活動へと戦略を移行したグループがチアパス先住民たちと合流し、密林の奥でひっそりと規模感を増していきます。また、同時期に解放の神学と呼ばれるカトリックの一派が布教活動を拡大したことも後の村落間ネットワークの構築に大きな役割を果たしました。90年代に入るとメキシコでは新自由主義経済が加速し、主食であるトウモロコシの価格保障の撤廃など、大きな政府が急速にコンパクト化され、それまで行われていた農村援助を打ち切っていきます。その後、追い討ちをかけるかのように、北米自由貿易協定(NAFTA)が締結され、安い米国産農産物がメキシコに流入することになります。そこで一番影響を受けたのは、メキシコシティ以南の先住民人口の多い州、つまり小規模農業が生活の中心となってきた地域でした。
 EZLNはこのタイミング、1994年の元旦に武装蜂起してチアパス東部の諸都市を一時制圧します。事態を重く見た時の政府は軍を本格導入しますが、EZLNに同情的な世論に押され、同月12日に停戦合意します。そこから対話を通じ、先住民の自治への権利を盛り込んだサン・アンドレス合意(1996)に至るまで、一般参加者、政府代表、学者、先住民組織、EZLN、NGOなどの幅広い参加を得て、話し合いの機会がなんども持たれます。しかし、ここでついに獲得されたかのように思われた先住民自治の諸権利は、結果的にメキシコ政府によって反故にされてしまい、その後も法的進展はありません。
 この歴史的流れと同時並行で、EZLNはサパティスタの名の下に自治コミュニティ連合をつくり、統轄地域を5区域に分けた自治政府を形成していきます。また、政治、経済、社会、教育に至るまで全て自前で行なって行くことを目的として、良き政府統治委員会(JBG)を立ち上げます。このように、EZLNの活動には明らかにアナーキズムとの親和性があります。もともと権力奪取を志向しない組織として、彼らが国の議会に入って政党を立ち上げるということはしない(注1)とはっきり明言しており、自治組織の形成という方向性は早くから彼らの中で決まっていたのだと思います。
 しかし、この自治コミュニティ形成の道のりは単純なものではありません。時の政府も戦略を変え、低強度戦争(注2)と呼ばれる反政府勢力の力を徐々に弱体化させていく作戦を展開します。具体的には、政府支持の引き換えに戦略的支援を行う村や家族を創出、軍の投入によるパトロールの継続、自治組織のリーダーの籠絡、殺害及び脅迫、準軍組織の導入など、多岐にわたるリソースを駆使した長期戦略です。その作戦展開のさなかで起こった1997年12月のアクテアルにおける虐殺事件(注3)は未だに人々の記憶に残る痛ましい事件です。この時期の分断が原因となっている各村の小競り合いは未だに続いており、時に住み慣れた村を出て行かなくてはならないというような事態も散見されます。
 また、EZLNは蜂起当初からネットやメディアを有効活用する(注4)ゲリラ組織として世界で知られるようになりました。中でも蜂起初期から後15年ぐらいの段階で特筆すべきは、彼らのその時々の指針を示すラカンドン密林宣言です。この声明は現在第六宣言まで存在しており、その時々の組織の有機的な変化を読み取ることができます。第一宣言(1994)はメキシコの中でのチアパスという場所の集団的な忘却と略奪の歴史に耐えかねて蜂起する旨を、淀みのない文章で記述しています。これはやはり当時のマルコス副司令官(注5)を中心とした都市インテリの影響が大きくあってのことだったのだろうと思います。
 蜂起時は土地の分配という問題が最優先事項の一つであり、実際にEZLNは60.000ヘクタールに及ぶ私有地を蜂起後の数日に制圧・接収しており、それを再分配することで、事実上のメキシコ革命の約束であった農民への土地分配を自らの手で行います(Villafuerte, et al., 1999: 131)。この動きは周辺地域の人々にも大きな影響を及ぼし、土地の回復運動がサパティスタではない先住民の間でも起こるようになります。メキシコ革命の雄サパタは、「土地は耕す人間のもの」というスローガンを革命時に提唱しており、まさに革命の継承者としてのEZLNの行動は市民社会の熱狂的な支持を受けました。  翻って2005年末に発表された第六宣言はもっと簡潔な筆致で、主体としても先住民が前面に強調されて出て来ています。また、反資本、反新自由主義の姿勢を明確に提示しており、サパティスタの視野が、メキシコのみならず世界全体のシステムがもたらす不公正に対してまで広がったことを明らかにしています。この第六宣言は、セクスタと現地では呼ばれ、その思想に賛同する人たちや組織は宣言発表当時サパティスタに協調を表明することである種の同盟関係に入ることができるものでした。
 これは、アントニオ・ネグリやマイケル・ハート(2003)のいう「中心のない権力のネットワーク」の構築を狙ったものであり、反資本という物語のもとに広く連帯をはかろうという、緩やかな互酬関係への招待ともいうべき試みです。つまり、見田宗介氏(2006)の言葉を借りれば、連合体としての交響するポリフォニー、柄谷行人氏(2010)の言葉を借りれば、回帰する高次元の贈与、交換形態Dによるアソシエーションの可能性の模索であると言えるかもしれません。しかし、いかんせんその社会的インパクトは未だ小さく、反資本・反新自由主義という物語が大きな影響力を持って多くの人に互酬を力動させるということの難しさを僕たちに示しているのだと思います。

資料2 レアリダJBGの建屋ドアにかかっていた金属板(著者撮影 2015.04.08)

 2003年より、EZLNはもとアグアス・カリエンテスと呼ばれた自治政治の5つの区域分けをカラコル(注6)という名前にして編成し直します。そこで立ち上がった5つの「良き政府統治委員会」(JBG)の下に行政区としてMAREZ、さらにその下の最小組織としてのBAZという3段階の領域統治構造を作ります。興味深いのは、これらの3つの組織が権力的には水平であり、JBGがBAZに対して多数決の原理で政治的決定を強制できないということです。時間をかけて話し合うこと、直接民主制ならでは決定の遅さがありますが、もっとも禍根が残らないようにするためには、しっかりと時間をかけなくてはならないということなのです。
 カラコルの内部には独自の教育施設、医療施設なども用意されています。もちろんNGOの援助を受けたりしている部分もありますし、貨幣もメキシコ国内で流通しているものを使っており、「独立」状態にあるわけではありませんが (注7)、自律社会の構築という点においては、我々の100歩先を行っているといっても過言ではありません。
 EZLNはそれからも常に、インターネットサイトと実際の活動を通じて意思表明をしてきました。しかし、様々な試みの成功や失敗の中で、支持者は大きく減り、いまや最大の敵は繰り返し立ち現れる、人々の記憶からの忘却というテーマなのかもしれません。僕がもっとも印象に残っていているのは2015年に開催されたセミナーでモイセス副司令官が何度も「まず組織することだ」と言っていたことです。資本主義を分析した時、EZLNはそれをヒュドラにたとえます。首を切ってもまた生えて来る怪物は、飽くなき剰余蓄積を目指し、あの手この手で空間を支配しようとする資本のシステムの比喩として秀逸だと思います。それだけ大きな相手に対抗するには「組織すること」がまず最初のスタートであると、モイセスは自身のここ数十年の経験から語っていました。
 2018年のロペス・オブラドール政権の成立は、国内外の左派を分断し、政権に痛烈な批判を浴びせるEZLNを快く思わない政権支持者が数多くいることもまた事実です。高い支持率を誇る現大統領は先住民の権利認知という点で様々なデモンストレーションを行ってきましたが、チアパスの紛争状態は昨年も悪化しており、国家というものの限界が明らかになっています。政党が変わったとはいえ、過去の負の遺産を解消して行くことは容易ではないということです。
 またEZLNは近年フェミニズムとも親和性を深めており、女性だけの会合やワークショップを開催したりもしています。EZLNのリーダーとしても女性たちが増えてきていることは間違い無く、男性優位社会の解消というテーマも重要なアジェンダの一つになっています。

EZLNコミュニティを目指すが・・

 さて、フィールドワークの話に戻りましょう。小田実氏(1979)のごとく、「なんでも見てやろう」主義の僕は、とにかく現地に赴いて話を聞くなり体験してみるタイプで、チアパスでもコミュニティで住まわせてもらうことを念頭に、場所選びを始めました。まずはEZLNに直接交渉です。しかしその年が進むにつれフィールドワークできるのか、どんどん雲行きがあやしくなってきます。2015年3月末にEZLNの拠点の1つであるレアリダを壁画制作ボランティアで訪れていたこともあって、ガレアーノの死以降の緊迫した状況を自分の肌で感じ取っていたゆえに、僕の曖昧な研究計画では受け入れてもらえないのではないか、と思っていました。同年8月、案の定受け入れ不可との回答をもらい、EZLNをめぐる研究計画は振り出しに戻ってしまいます。

資料3 レアリダでの壁画制作風景(著者撮影 2015.04.11)

 この壁画制作というのは、2015年の3月末から4月初の2週間、米国人の運営するNGO組織が主催したもので、EZLNが新設した学校の一部とコミュニティ食堂の外壁に壁画を描くというものでした。その頃僕はレアリダ周辺のラス・マルガリータスという地域を拠点とした研究を考えていました。しかし、ガレアーノという自治学校の教師が2014年の5月に周辺コミュニティの村人たちによって殺害されたことで、周辺地域一帯の緊張が高まります。僕が行った時はまだ負の感情がくすぶっており、抑えても抑えきれない怒りが静かにレアリダに充溢しているのを感じました。制作の中で少しずつサパティスタのメンバーたちとも会話を交わしたり、時にはバスケットボールをするようなこともありましたが、滞在研究の許可に関しては、まだ相当時間がかかるだろうという印象を受けました。
 それで結局一番アクセスのいいオベンティックという拠点に行くのですが、先述の通りにべもなく断られてしまいました。昔は多くの研究者を受け入れていたEZLNも、あまりに多くの研究者や報道関係者たちが虚偽の事実やメンバーの個人的なことを書きすぎたため、最近では積極的な受け入れは行なっていない状況です。
 しかし、そこから間髪を入れずに僕の研究は急展開を迎えます。限られた研究滞在時間というとてもアカデミックな都合もあったので、サパティスタコミュニティでのフィールドワークは諦め、サン・クリストーバルに到着してすぐに出会っていたホセというシナカンタンという行政区に住むツォツィル人のところで厄介になることに決め、自治コミュニティでの滞在研究をスタートしました。そこからは平日を村で過ごし、週末には町に帰ってきて洗濯などの雑事を済ませたり、友人たちと一杯飲んだりという生活が始まります。

ホセとの出会い

ホセと出会った日のことは今でもよく覚えています。サン・クリストーバルで最初の数日居候させてもらった友人の家で、ある朝コーヒーを飲んでいたら2階から同じく一泊していたホセが降りてきたのです。そこで彼の村のことを聞かせてもらい、直感的に心を揺さぶられるものがありました。早速その月の終わりに村へ案内してもらい、そこでフィールドワークをする可能性を検討し始めたのです。
 当時ホセは45歳、先妻と別れ自由に暮らしていた頃で、村とサン・クリストーバルを頻繁に行き来していました。ホセの村はサン・イシドロ・デ・ラ・リベルタ(San Isidro de la Libertad、以下SILと略します)と呼ばれるところで、州都トゥクストラへの旧街道を少し行ったところにある動物園(というにはほとんど動物がいなかった)と呼ばれる場所で乗り合いバスを降り、さらに40分ぐらい、ミルパ(注8)がところどころにある獣道を徒歩で歩いていかなくてはなりません。
 ホセはすごい男でした。とにかくなんでもできる人で、若い時には移民も経験して、米国にも一年不法滞在していたと言います。移民は僕の中でもとてもアツい話題だったので、どうやって米国まで向かったのかと聞くと、行きはコヨーテ(注9)の手引きで、帰りは徒歩で帰ってきたと、平然として言うのです。現地では庭師として働き、真面目な働きぶりが認められ、出入りしていた中国系の家族から娘と結婚しないかと言われた、と笑いながら話してくれました。

資料4 SIL周辺地図(中央部円内に村が存在する、地図は引用後著者編集 (注10))

 米国政府に全くその存在を知られることなく、国境を越えてまた帰ってきたホセ。ユカタン半島にも出稼ぎに行ったことがあり、安物のお土産を高値で観光客に売りつけていたそうです。僕はその人間的なたくましさにすっかり魅了され、毎日いろんな話を聞かせてもらっていました。そういった経歴を経ながらも、結局は自治コミュニティの立ち上げに尽力し、EZLNや自治の可能性について熱く語る彼をみて、その動力の根源を理解したいと思いました。

資料5 ミルパでトウモロコシを手にするホセ(著者撮影 2015.10.14)

 ちょうどその頃、村に向かう道にはモモやリンゴがたわわになっていて、秋の訪れを感じながら足早に村に向かっていたことを覚えています。最初の頃は、桃のせいなのか、陶淵明の『桃花源の記』のことをよく考えていました。簡単には入れない場所にひっそりと佇む桃源郷。そこでは戦火を逃れた老若男女が幸せに暮らしていたというのがその話の筋書きです。SILも元は隣村チャフト(Chajtoj)やサン・イシドロ(San Isidro)(注11)と一つの村を構成していました。しかし、サパティスタ蜂起後の騒乱に呼応したことでチャフトと分裂、さらにその後政党に加担したサン・イシドロからも離れ新たに設立されたコミュニティです。また、一時期政府や政党とつながったことがサパティスタから問題視され、2005年にEZLNとも袂を分かつことになります。まさに理想郷の建設を求めて立ち上がり、その試みが失敗に終わった後に、また偶然できあがった平穏な暮らし(注12)。そんな印象を当初は受けていました。

SILでの暮らし:隙間にできたユートピアにて

 いざフィールドワークという段階になって、最も戸惑ったのは、贈与というものに関して体系だったインタビューを行うことが容易ではないことでした。「贈与と認識されることで、それが贈与でなくなる」というデリダの命題(あるいはジレンマ)は有効であり、妙に贈与を意識させて現地の人たちに悪影響を与えてもつまらないし、何より全体的社会的事象について知りたいわけだから、参与観察しながらとにかく多くの人たちと色々話して行くことでようやく少しその片鱗が見えてくるものなのです。と、今でこそ難しいことを言ったりもしていますが、実は何もかもわからないまま、とにかく飛び込んだというのが当時の僕でした。それでも、無我夢中でやっていた、「とにかく暮らしてみる」という参与観察のスタイルが実は研究に最も合致したものだったのだと、後年わかってきます。
 村に着いてからまず、村会議の場で自分の来訪の目的を説明します。色々と村の自治のことを教えてもらいたいが、その代わりに自分も返礼できるものがないといけない。贈与と返礼の関係がないまま、一方的に情報だけをもらうということは、研究としてはそれで成立するのでしょうが、僕自身にはしっくりきません。それで、小学校の先生のボランティア補佐をすることを条件に村に住まわせてもらうということを提案します。また、来たる村祭りへの寄付も少々行い、少し警戒心が解けたのを感じることができました。それからは、毎日、午前の小学校の授業の傍ら(といっても算数と読み書きやバスケぐらいしか教えられるものはなかったのだが)、ホセの仕事を手伝ったり、村の共同作業にも顔を出して、とにかくいろいろ話を聞きながら、彼らが贈与・互酬的関係をいかに制度的に維持できているのかを理解しようと努めました。
 僕が行った時は少し勢力が弱まっていたものの、SILは活気のあふれるアナーキーな場所です。例えば電気代が不当に値上がりした時のことです。村で話し合い、支払いを一斉にやめてメキシコ連邦電力委員会(CFE)から作業員が送電を切るためにやってくると、捕縛し村の牢屋に閉じ込めて(注13) 、彼らを人質に電気代の交渉をしたと言います。それで、この周辺地域の電気代は無料になりました。でも、電気をやたら浪費したりしているわけではありません。CFEも消費量の割に、値上がりの度に作業員を拘束されてはたまらないと思ったのでしょうか、当時の電気代無料契約は今も有効です。
 また水も自前です。雨期は雨水利用がもっぱらですが、乾季は雨期に大型貯水槽に貯めておいた水を重宝します。その貯水槽もスペインのNGOの協力を取り付けて、政府の援助なしで用意しました。さらには、サン・クリストーバル周辺で認められている運転免許証もあるのです。出生証明までも村で発行することになっており、子供達の中には公的に存在を認知されていない子達もいました。教育機関もまた、近隣の大学(CIESAS)や大地大学(CIDECI-Unitierra)(注14) との協業でカリキュラムを作り、シュンとシュンカという若い夫婦を新たなコミュニティ小学校の教師として据え、独自の教育を行っています。
 以前はツォツィル語も話せない先生が中央機関から送られてきて、その先生も辺鄙な場所での教育に飽いたのか、酒に溺れることもしばしばで、ちゃんと授業が行われてきませんでした。こういった状況を看過できないと、村の人たちが協力して学校を占拠、教師を追い出して、新たな自治教育の枠組みを外部と協力して作ったというのだから、すごい行動力です。 
 この村はグーグル・マップにも表示されず、公的機関からは認知されていない村です。しかし、認知されていないからこそ低強度戦争のような状況も活発化していないし、周囲が軒並み政党寄りやプロテスタント系の宗教寄りになっているなかで、ひっそりと自分たちの自治を守っていくということも可能になっている側面があるのだと思います。 

資料6 年末マリアーノ宅で食事の招待を受ける(著者撮影 2015.12.28)

 上の写真手前の男性がシュンという当時小学校の先生をしていた人なのですが、なかなかの好青年でした。学校終わりに家に呼んでもらうこともあり、僕も野菜やお酒(注15)を片手に何度かお邪魔したものです。そうやって一緒に一杯飲んでいたある夜、一人の女性が女の子を連れてシュンの家のドアを叩きました。何やら深刻なお面持ちで話し込んだあと、シュンがおもむろに木の枝を切り取ってきて、女の子の体から木の枝で何かを払うような動作をしながら、ポッシュを吹きかけていました。シュンはクランデーロ(注16)としての才能も持っているようで、時折近隣の人が必要に合わせて助言や儀式の依頼に来ていたのです。女の子は恐怖体験や強烈な出来事を経験した後に陥りやすいという一般にエスパントと呼ばれる状態にあり、シュンが行なったのは一種のお祓いのようなものでした。
 彼は村の中でも特別な存在だったと思いますが、SILの人たちの暮らしぶりを見ていると「なんでもできるやつら」であると畏敬の念を覚えざるを得ませんでした。その彼ら・彼女らの前には、まるで赤子のような自分がいるのです。山刀(マチェテ)ひとつろくに使えないし、トウモロコシをトルティージャにすることもできないし、家の建て方や補修方法も、畑の耕し方も、家具の作り方も、ネズミの捕らえ方も、まるで何も知らないのです。おまけにツォツィル語は話せないし、とんでもない無力感です。そういった実感から、生活においては自治と並んで「自律」と言う言葉の意味の深さを思い知らされました。
 ホセが出かけてしまった日には、コマル(注17)に火をくべようとするのだけれども、風は強いし手はかじかんで、なかなか薪に火をつけることすらできません。オコーテと呼ばれる燃料になる木材にまずは火をつけるのですが、それもある程度小さく切っておかないとなかなか着火しないのです。そんな基礎中の基礎も分からぬまま、多くの人のお世話になって(日本でもメキシコでも僕は今も多くの人の世話になり続けている)、つまりは多数の人の贈与を受けて三ヶ月以上もその場に暮らさせてもらったのです(注18)。それだけに共同作業などはここぞとばかり、恩返しだと思って参加していました。
 共同作業は、例えばインフラ整備や祭りの準備などで、村議会を通じて仕事の内容と日程を決めます。政府の援助を受けていないということはまた、インフラ整備も自分たちで行わなくてはならないということなのです。僕が参加して印象に残っているのは、道路整備の仕事でした。村ごとに区画を決め、土砂を投入して、道を平らにして行きます。鍬や鋤、シャベルなどの基本的な道具で行うので、大変な重労働でした。仕事が終わると皆でご飯を食べて、タバコが振る舞われ一服して解散となります。
 こういった力作業はジェンダーによる分業がはっきりしており、男性が主に担当していました。その一方で、女性たちもまたたくましく、日々を生きていました。織物が伝統工芸として有名なシナカンタンに位置するSILでは、女性たちは日頃家事や農作業の傍ら織物を織っています。僕が滞在していた頃には、村の自治中学校のイニシアティブでパソコンケースを作ったことがありました。女性たちが組織・采配して、皆で一斉に生産を始めた姿を見て、組織力の高さとコンセンサスの必要性について考えさせられました。この共同作業は一人の女性がサン・クリストーバルでの個人的な販売に舵を切ってから、徐々に破綻していきます。そのことを咎められたのでしょうか、その女性は夫の村に住むようになり、SILにあまり寄り付かなくなりました。金銭が絡む時、連帯を通じた経済を維持して行くことの難しさがこの小さな例からも見えてきます(注19)。

資料7 織物を織る女性たち(著者撮影 2015.11.11)

ツォツィル人の瞬間の哲学 レキル・クシュレハル

 ツォツィル人やツェルタル人の間ではレキル・クシュレハル(Lekil Kux-lejal)(注20)と呼ばれる彼らの生活哲学があります。これは同じチアパスに住むトホラバル人の間ではレキラルティック(Jlekilaltik)と呼ばれるもので、簡単に言えば人間同士及び人間と自然との調和状態を指す言葉です。先述の通り、先のエクアドルとボリビア憲法へのブエン・ビビール(善き生)というアンデス及びアマゾン先住民の哲学の導入は、メソアメリカ研究者たちにも大きな影響を与えました。結果として、メキシコの研究者たちは、メキシコ先住民の哲学というものを再検討し始めます。その中でレキル・クシュレハルの概念も再度脚光を浴びるようになりました。
 9月のある日、ホセの親類の畑作業を手伝うことになった日のことです。仕事内容は鍬を使って、ソラマメ周囲の土を掘り返しながら雑草を刈り取っていくという単純なものでしたが、これがなかなか慣れない自分には重労働で、若者もおじいさんもスイスイと作業を進めていく中で僕だけが息も絶え絶えになりながら鍬を振るった記憶があります。作業がひと段落すると昼飯の時間で、女性グループが畑の真ん中で作ってくれた野菜スープを食べました。それがとても美味しくて、思わずホセの顔を見た時に、「これがレキル・クシュレハルだ。」と、彼は僕に向かって言ったのです。
 この一見ありふれたような経験は衝撃的で、深い余韻を残します。友人や家族に囲まれ、土地のものを食べて、人生が満たされた感覚の中にこそ、このツォツィル人の瞬間の哲学を感じることができるのだということ。僕自身も労働の後の食事という心地よいひとときにその言葉が出てきたので、納得がいった気がしました。
 それから5年近い時を経て、僕はボリビアの先住民に例の「善き生」とは彼らにとってなんなのかと聞いた時に、ホセとほぼ同じ回答を得ることになります。僕は事前の書籍研究から、ある種のかなわぬ理想状態を指すのではないかという疑念を抱いていたので(注21)、ボリビアのケチュア人たちが「家族が集い、共同作業をして、冗談を言いながら飯を食う時に実際に感じられるものだ」と言った時(注22)、全てがつながるような感覚を得ました。つまり、このコンセプトがアメリカ大陸の先住民に通底して存在する可能性と、アカデミズムがこぞって作り出した幻想ではないということを経験的に理解した瞬間でした。

資料8 農作業の中でシェアした食事(著者撮影 2015.10.27)

 僕らの生活を振り返ってみると、僕らは「いまここに佇むこと」を技能としてすっかり忘れてしまっているのではないでしょうか。これに関連し、哲学者の古東哲明氏(2011)は近代のもつ貯蓄精神を批判します。今ここではない未来時のいつかどこかに生活の力点を置いて生きることは、僕らの時代ではスタンダードになっています。社会もまたそんな人生設計から逃れられないような強要を常に強いてくるのです。
 レキル・クシュレハルは今日において、この直線的な時からの解放の瞬間を示す言葉なのだと僕は思います。つまりそこには生が充溢する。再び古東氏の言葉を借りれば、「死の不安の消失体験(死の死)」、であり「時間の秩序から解放される」ことであり、これがすなわち「脱時間の次元」なのです。まさに「瞬間を生きるということは刹那滅構造(生死のさなか)の生の純粋形(ゾーエー)を忠実に豪快に生きることに他ならない」(2011: 156)のです。
 また、レキル・クシュレハルは同時に義務の履行がその瞬間を支える屋台骨になっていることを示唆しています。まず、コミュニティに、親族に、友人たちに尽くしていること。土地の神々や聖人・聖母への畏敬を忘れず、日々欠かさず祈りをあげていること。つまり、贈与の均衡感覚の中で、瞬間を大切な人たちとシェアしている感覚、これこそがその概念的本質なのではないかと、彼らと話す中で考えるようになってきました。
 だから、地方行政や村の政治が、国家という枠組みからは考えられないように、国家的レベルでの「善き生」の実践など、話が大きくなりすぎてレキル・クシュレハルの本質から逸脱してしまっているのだと思います。ボリビアやエクアドルなどの国家プロジェクトとしての導入失敗はその実態を如実に示しているのではないでしょうか。この感覚は集団的ながら、とても個人的なところにあるものだからです。つまりその生起するところがもっとアナーキーな場所にあるため、国家という枠組みとは相容れないものなのだと思います。
 しかし、レキル・クシュハルの話になった時、必ず出るテーマなのですが、「先祖たちにしか感じることができなかった」、あるいは「感じられる機会が少なくなっている」という現在多くの人たちがシェアしている危機感があります。そして、時とともにその意味の変遷も観察されています。近代的で物質的な環境の充足だったり、政府の言う生活レベルの「向上」をレキル・クシュレハルだと言ったりする人たちも出てきているのです。これは南米アンデス地域でもブエン・ビビールという概念をめぐり、全く同じ現象が起こっています。現在におけるレキル・クシュレハルとはなんなのか、共に考察し再定義を続けて行く必要があるでしょう。

構造的暴力の中にあるチアパス

 穏やかな暮らしが村生活の実態であることは間違い無いのですが、その生活の中にも緊張はあります。政党や宗教による介入で思想・宗教の入り乱れるチアパスでは、紛争の火種が静かな日常の中でくすぶっている状況があります。特にお酒が絡むと暴力沙汰などに発展することもしばしばで、長く滞在すればするほどそういう危うさも見えて来ました。隣の村のグループとは言っても、隣人であり、またせまい関係ですから、家族関係にあることも多々あります。しかし、家族間でもイデオロギーの違いを尊重し合うというよりはむしろ、あきらかな分断が生まれているという印象です。
 SILにおいて、ホセとマリアーノの2人は自治運動の中心リーダー的な存在であり、他の村でも彼らの存在は良く知られています。1月からのカルゴ(注23)交代を控えて、隣村の2村がなにやら良からぬことを企んでいるとの噂をききつけたホセは少し警戒しているようでした。ホセの話は魔術的で(注24)、時に本当なのか作り話なのかよく分からないのですが、その時は真剣な面持ちで「命を狙われているかもしれない」と言っていました。
 11月のある夜のことでした。その日は朝からホセが今日は来客が来ると言って、せっせと干し肉のスープを作ったりしながら、二人で談笑していました。昼をだいぶ過ぎてサン・クリストーバルから3人の来客があり、うち2人は村が初めてということで、ご飯を食べた後に村の中心部をホセと一緒に案内しました。到着が遅かったため、彼らが村を出るころには日も暮れ始めており、乗り合いのワゴン車が来る国道まで小一時間かけて見送りに行った時には、すでにあたりは真っ暗になってしまいました。彼らと別れた後、僕とホセが帰路につこうとすると、一本道の後方から見慣れないピックアップトラックがゆっくりと近づいて来るのが見えました。
 ホセはとっさに「見たことない車だ、隠れるぞ。」と言い、急に道から右にそれてきつい傾斜のある杉林の方に僕を誘導しました。暗くて何も見えない中で、突然の恐怖に襲われながらも、死角となる斜面で息を潜めていると、車は少し速度を緩めた後去って行きました。もしかしたら、なんでもない普通の車だったのかもしれませんが、低強度戦争開始以来の緊張は今でも続いており、暴力の連鎖は自治コミュニティの存立を常に脅かしていることに気づかされた瞬間でした。テリトリーの防衛というものに時間と財源を割かなくてはいけないというのは自治コミュニティにとっては大きな障害であることは間違いありません。EZLNも常にこの点に関しては苦慮し続けていま(注25) 。
 このように、チアパスは次章で触れるオアハカ北部山地にはない緊張感の中に生きていると言えます。潜在的な暴力の可能性は自治コミュニティのメンバーたちを萎縮させ、自律的な生活の中にセキュリティ維持という項目を追加で検討せざるを得なくなります。EZLNは今の民主主義的と思われているロペス政権下でも構造的な暴力が以前と変わらず先住民コミュニティに行使されていることをサイトから告発しています。
 ホセは自治の最大の問題は個人主義だと言っていました。政府の援助政策は収入の違いや耕地面積など、細かい各家族の違いで受け取れたり、受け取れなかったりします。政党は選挙での投票を約束させようと、物資を配ったり食料を配布したりしてきました。またプロテスタントの会派は個人の救済を訴え、家族やコミュニティを分断してきました。そういった分断を乗り越えて、自分たちの居場所を、話し合いを通じて統制しながら居場所を維持して行く。並々ならぬ努力が必要です。

資料9 サン・クリストーバルのサパタの壁画(著者撮影 2015.05.05)

 しかし、1994年の分水嶺を超えたチアパスにおいて、先住民自治コミュニティは、自分たちの権利を認識し、(少なくとも一度は)長きにわたる上からの統治の楔を抜き取り、緊張の中にも自分たちが自治共生していける空間を得ました。この歴史的経験は今も続き、これからさらに多くの村が政党などに買収されるようなことがあっても、闘争と自治の集団的記憶が残る限り、自治への渇望はいつでも再起する可能性があると僕は思います。
 メキシコではデモのシュプレヒコールにいつもサパタが出てきます。Zapata vive, la lucha sigue(サパタは生きている、闘争は続く)、というものです。 今日も自治、テリトリー、その内部での互酬の可能性をめぐり、チアパス先住民たちの闘争は続いています。



第一章 チアパス篇脚注
1. 一時期PRDと共同戦線を組んだこともあるが、後に声明で誤りであったと認めている。
2. 米国の冷戦期第三世界における対ゲリラ戦略として考案されたもので、直接戦闘ではなく間接的に反政府勢力を弱体化させていくものである(Pineda, 1996)。
3. 同年12月22日、チェナロー行政区アクテアル村に準軍組織が侵入、村民45人を殺害した事件。政府や軍の関与も指摘されており、25年目になる現在も未だに係争中の事件である。
4. EZLNは今もインターネットサイトを活用している。具体的な内容は、以下サイトを参照のこと。https://enlacezapatista.ezln.org.mx/
5. 2014年5月、レアリダでのガレアーノという組織メンバーの虐殺の後、翌年の2015年以降は故人の名をとってガレアーノ副司令官と改名した。
6. カラコルとはカタツムリのことであり、その動きの遅さは自治の進行の遅さの比喩であり、甲羅の形状は中心から外円へと広がりつつも外円から中心へと収斂しているようにも見えることから、権力の所在の比喩にもなっている。彼らの標語は「遅いが進んでいる(lento pero avanzo)」と「従属しながら統治する(mandar obedeciendo)」であり、自分たちの政治中枢であるJBGの所在地をカラコルと呼んでいるのである。脱成長論でも、カタツムリという象徴が時に用いられているという符合は興味深い。
7. モイセス副司令官は会議で「僕らはスーパーマンではない」と、左派の若者たちが熱狂的に彼らの理想像を作り上げようとしてきたことを諌めていた。彼らもまたサッカーが好きでバスケが好きで、コカコーラも大好きな一般的な人たちであること、これはいつも肝に命じておきたい。
8. ミルパとは伝統農法で管理された農地のことで、主にトウモロコシ、マメ、カラバサ(ズッキーニのようなもの)を中心に、主食となるものを栽培している。ミルパで生産されるものは多くが自家消費用である。
9. 不法移民仲介道先案内人のこと。
10. 引用先: https://www.ceieg.chiapas.gob.mx/productos/files/MAPASMUNDC/Base_Zinacantan.pdf.pdf
11. 名前が同じなのでややここしいが、サン・イシドロは政党寄りコミュニティ、SILは自治コミュニティで、2つは別物である。
12. 西洋の目指すべき理想としてのユートピア(目的論的)と陶淵明において描かれた、夢敗れた後に、つまり厄災の後に立ち上がるコミュニティを一つの理想郷(偶発的)とする、この違いは示唆に富む(伊藤直哉『桃源郷とユートピア』(2010))。
13. 自治を行なっている村は基本的に慣習法に基づいて、規律違反などがあった場合、村が各自持つ牢屋に短い期間収監する。例えば、酔っ払って誰かを殴ったというようなことがあれば、即牢屋に入れられ、その後の対応は村議会で話し合いの上で決まる
14. 大地大学は元もと先住民の専門学校のような機能をもち(CIDECI)、当該研修コースは非先住民には開かれていない。しかし、Unitierraとしては、各種勉強会などをかなりの頻度で行っており、これは誰でも参加できる。EZLNの活動拠点としての側面もあり、2019年からは新たなカラコルに指定された。この施設はSILとも深いつながりを持っており、コミュニティの様々な問題のアドバイザーや農産物の買取先としても機能している。
15. 村の金銭感覚ではビールは高いのであまり口にせず、ポッシュ(pox)と呼ばれるサトウキビやトウモロコシ、麦などを合わせて発酵・蒸留したお酒がよく飲まれる。アルコール度数は体感35-40%で、村では量り売りで購入していた。ホセは庭で取れたフルーツや薬草を漬け込んだりして、どちらかというと食べ過ぎた時や薬用という感じで使用していた。
16. クランデーロとは、村にいる民間医療従事者で、伝統医療とシャーマニズムを組み合わせたような存在である。このような人たちの存在やその実践は南北アメリカ大陸全体に見られるものである。
17. コマルとは主にトルティージャや野菜などを焼くための鉄板であり、暖炉の上に丸い鉄板が乗っている姿を想像してもらえると良い。
18. グレーバー(2016)はこれを「基盤的コミュニズム」と呼ぶ。すなわち、「誰かに何かを借りている状態、そして誰かに何かを貸している状態であり、そして誰もがその即時的返済を望んではいない状態。ここで生み出される関係こそが人間の基礎的関係なのである」(山田 2020: 125-126)。
19. 連帯経済の資本主義的な意味での「成功」が、相互扶助を下支えしていた物語・倫理を解体する傾向にあることは示唆に富む。
20. レキル・クシュレハルの定義についてはアントニオ・パオリ(2003)がツェルタル人の研究で詳細に検討している。また、自身もツォツィル人である研究者ミゲル・サンチェス(2012)によれば、レキル・クシュレハルとは、コミュニティ内の調和に関わる概念で、人間間、人間と自然間の均衡を司る価値観と行動の総体を指すものである。他にもハイメ・シュリッター(2012)が修士論文でチェナローの実践に即した良質な研究を行っている。
21. ブエン・ビビール、つまり「良く生きること」にはおよそ三形態の解釈パターンがある。1つめは、例えばボリビアのシモン・ヤンパラ(2001)などの主張する先住民宇宙観としてのもの、2つめは自然環境での生物共生という環境主義的な観点で普遍的援用を考えている学派(Acosta, Gudynas)、3つめにボリビア・エクアドル政府のプロパガンダ的利用である。
22. 2020年1月スクレやポトシにまたがるナシオン・カラカラのリーダーであったマリオ・チンチャに行なったインタビューに基づく。
23. カルゴとはカルゴシステムと呼ばれる輪番役割交代制度で、一年あるいは二年に一度交代して、コミュニティ内の雑事から重要な決め事を履行する行政担当役職のことである。詳しくは後述のオアハカの章で触れる。
24. よくホセは自分の見た夢の話をしてくれた。テレビも携帯の電波もない生活は、日常の細かいところに意識が行き届くような感覚を与えてくれたし、何より会話がいつもはずんだ。
25. 前述のカラコル・レアリダでは毎日午後に武装した兵たちを乗せた軍の装甲車が村を通過していた。

本文は月出工舎における2022年2月開催の「旅のかたち」の参考資料である。

第二章に続く→


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