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第2章 オアハカ北部山地:変化の中のコムナリダ


オアハカ北部山地へ

 修士の課題は時間的限界であり、もっとじっくりとフィールドワークに取り組みたいと思っていたので、博士(メキシコでは4年間)でも継続して贈与論の研究を深めていこうという方針は早々に決まっていました。博士課程では、さらに対象地域を広げ、南北アメリカ大陸の先住民の一般的実践として贈与を追ってみたいと考えます。そこで、メソアメリカ(注1)の経験の一つとしてオアハカという場所に1つ目の焦点を定めることに決めます。というのも、修士の研究の過程ですでにオアハカ北部山地(Sierra Norte)のコムナリダ(Comunalidad)と呼ばれるサポテコ(Zapoteco)・ミヘ(Mixe)由来のコミュニティ生活哲学に贈与論との親和性を見出し、深い関心を持っていたからです。
 オアハカという場所は、メキシコ観光の話になると必ず名前がでるほど近年有名になって来ました。起伏の富んだ複雑な地形は、各民族や地域の文化的表象を維持することに一役買い、今でも万華鏡のごとく特殊性のある各地の風習や民芸が多様な形で息づいています。先述の通り、表層的な話ばかりが一般には取りざたされる地域ですが、政治や経済でも深い部分で先住民自治とは切っても切れない関係があり、知れば知るほど深みのある地域だと言えます。
 オアハカはスペインによる征服時、比較的少量の犠牲をもって、征服者たちに従属することになりました。しかし、オアハカ北部山地はその中でも例外的に、地政学的な攻略の難しさから最後までカトリック教化が進まなかった地域です。鉱物資源がそれほど豊富でなかったことも、他州で起こったような悲劇的状況を避けることができた一つの理由です。とはいえ、植民地政策は先住民のそれまでのあり方を大きく変化させます。中でも疫病の流行で激減した先住民を新たに集住させ、教区、守護聖人、その聖人にまつわる村祭りを導入したことは、今日の各村の組織形態の成立の基礎となっています。
 チアパス同様、独立もメキシコ革命も先住民たちの生活にはそれほど大きなインパクトをもたらすことはありませんでした。また大型の鉱山などの不在から、スペインからの入植者たちもそれほど土地への大きな関心を示さず、先住民の自治が伝統的にある程度黙認される状況が続き、今日行政区が最も細分化された州として知られる現在のオアハカを作り上げていきます。北部山地はその典型例で、実に87%以上の行政区が2500人以下の人口を持ち、分散してアクセスの悪い地域に住んでいるという実態があります(COPLADE, 2017: 3)。
 これらの地域では慣習法に基づくコミュニティ内部での統制が機能し、自治裁量権(慣習法)が認知されており、州憲法にもその記載があります。特に北部山地ではその慣習法の履行が政府・政党の介入の大きな影響を受けることのないまま、潤滑に行われている状況です。しかし、偶然今の状況が完成したのではなく、これも北部山地の闘争の歴史があっての結果だということは忘れてはなりません。

資料10 オアハカ8地域と北部山地当該フィールドの位置(画像より著者作成)

 20世紀になると北部山地でも木材・鉱物などの企業による天然資源の濫用が進みます。その中で国からは企業向けのインフラばかりが整備され、各村は依然として村内外の互助システムを利用しての自主的インフラ整備を進め、国家とは並行的に存在してきた歴史があります。1980年代に入ると、主にサポテコ人の住む地域で木材の伐採を行なっていた製紙工場(FAPATUX)が、周辺地域の25年にも及ぶ森林伐採権の更新をするというタイミングで各村が協力し、政府による伐採権の譲渡に「待った」をかけます。以降、政府との交渉の中で、道路などのインフラの整備が少しずつ進んでいくことになります。

資料11 雲の上に立つ北部山地(著者撮影 2018.08.09)

 僕がフィールドワークに入った地域は、行政区としてはビジャ・アルタと呼ばれるところで、西南部にあるソゴーチョ(Zoogocho)を中心とするセクター(注2)の一部の村に訪問・滞在させてもらいました。この地域もまた90年代のインフラ整備で一丸となり、政府に申し立てを行うなど、コミュニティを統括する上部組織として今日も連合議会が存在し、毎月初必ず村ごとに2人の代表者が参加する形で会合を行なっています。コムナリダというオアハカ先住民の生活哲学はこの闘争の中から理論化されていきます。

資料12 ビジャ・アルタ行政区(Muñoz 2012より引用)


コムナリダを贈与論から紐解く

 コムナリダとは1980年代以降の北部山地の先住民運動の中で、現地出身の人類学者たちの間で提唱されたコミュニティ哲学です。その射程はメソアメリカ先住民全体に共有されるもの(Maldonado, 2013: 22)として理解されており、確かに先述のチアパスのケースから見ても共通点は多数確認できると思います。コムナリダ提唱者の一人であるディアス(2007)によれば、コムナリダは5つの要素から構成されています。1つめは、テリトリー。コミュニティごとにきっちりと統治範囲が決まっていて、そこにある有形無形の資源利用、域内の歴史や説話が共有されています。
 村議会(アサンブレア)もまた重要な要素です。ここには北部山地先住民の民主主義の根本があります。この民主主義の根本とは、直接参加とその決定プロセスの遅さです。人類学者の松村氏(2021)も指摘しているように、村民の納得がいくまで話さなくては遺恨が残り、潤滑なコミュニティ生活が難しくなります。ゆえに問題の規模次第では話し合いが長期化することもしばしばです。さらに、円滑な村生活を可能にするため、現地にはカルゴシステム(注3)と呼ばれる、無償で村の役場仕事を1年交代で担当する制度があります。重要な役職に関しては、ほとんど自分の仕事をすることができず、村のために1年奉仕しなければなりません。
 4つめは共同労働です。テキオと呼ばれるこの無償の共同作業は、インフラ整備から村の財源となる農産物の生産まで、多い時は月に2度ほど招集がかけられ、全員参加が義務付けられています。村役場の建物などもこのテキオで建造されたところが北部山地には多くあります。最後に、儀礼・祭礼の重要性をディアスは指摘しています。各村にはカトリックの守護聖人・聖母が定められており、その生誕を祝う村祭りは、厳かな儀礼の日々に飲めや食えや踊れやの大騒ぎが加わり、大変な盛り上がりを見せます。
 これらの5つのコムナリダの軸は全て個人とその家族のコミュニティ運営への直接参加を必要としています。何をどれだけコミュニティにもたらしたかということが個人の名誉に繋がり、コミュニティの人間として貢献していくうちに人間的評価(評判)というものが定まって行きます。この貢献というのはいわずもがな贈与行為であり、コムナリダを生成する根幹になっています。
 またこの参画型社会は教育的な意味も持っています。学校の義務教育などとは全く違い、実践的な参加を通じて経験的に培って行くものです。カルゴや村議会、テキオでの貢献を通じて共同性のモラルを学んで行く場が用意されているわけです。もちろん、全く仕事をしないものは村八分にあうこともありますし、土地へのアクセス権を失う可能性もあります。
 オアハカ在住の人類学者アリシア・バラバス(2017)はこの義務的な面をオアハカ先住民の「贈与倫理」(ética del don)と名付け、オアハカ全体に占める贈与の重要性を示唆しています。2003年に書かれた短い論文の中で、彼女は米国の人類学者マーシャル・サーリンズ(2012)が提唱する親族関係の近さによる互酬の3形態(注4)を参照しつつ、その中間ともいえる均衡的互酬という概念を取り上げました。しかし、この均衡的互酬は等価交換的な互酬形態であり、これだけに着目していては、導入部分で記述した贈与の背景にある物語・倫理(レヴィ=ストロースの言う浮動するシニフィアン)を見失ってしまいます。 
 さて、上記のことを踏まえて再度コムナリダを見つめ直してみると贈与・互酬の観念が制度的に常に現出しているのがわかります。例えば北部山地のサポテコ人の間で知られるゴソーナ(gozona)と呼ばれる相互扶助は、かつて日本でも見られた「結」に形態が近いものです。オアハカ盆地ではゲラゲッツァ(Guelagueza(注5) に相当する言葉であり、約束として取り決めての、どちらかというと等価性を意識した互酬的労働あるいは贈与行為です。最も簡単な例で言えば「今日はあなたの畑の雑草取りをするから、明日は僕の畑を手伝ってね」と言った取り決めです。

資料13 サン・アンドレス・ソラーガにて著者もサトウキビ搾りに参加(友人撮影 2019.04.09)

 また結婚などの催事には、誰からどんな贈り物をもらったのかをこまめに描くノートも存在しており、きっちりとどこの家族から何をもらったのかが記されています(Ramos, 2017)。返礼はもらった相応分を贈与してくれた家族の次の同様のイベントで返済するのが基本です。ただ、家族という枠組みで贈与主体を解釈しなければ、贈与を受容している個人というのが実は毎回異なっているのが理解できると思います。例えば婚礼の際に、贈与者は受取人の息子に贈り物を手渡しますが、この息子も時が経って贈与者の娘の結婚式で贈り物を手渡すとします。つまり、家族間で言えば贈り物がただ行き来しているだけになりますが、個人で見れば一方通行的に贈与が進行して行くのがわかります(注6)。また、ここには世代にわたる大きなタイムラグが生じており、まさにデリダの言う差延が発生しているわけです。この時間のずれこそが関係の継続性の鍵なのです。
 それに比較して共同作業であるテキオは、「共同寄託」という言葉がふさわしいものです。みな同じ条件でインフラ整備などのコミュニティ全体の福祉向上のために参加し、作業も終盤になると酒や飯も振る舞われて、時には宴会にもなります。大抵は重労働なので、男性が中心となって共同作業を行なっていますが、女性も食事の準備などで協力しており、役割分担がここでもはっきりしています。重労働と言ってしまうと、ただ苦しいだけなのかと思われがちですが、共同作業の間笑いが絶えることはなく、作業終わりには食事を共にし、チアパス編におけるレキル・クシュレハルのような充足感があるものです。
 カルゴは年末の村会議で村長以下各種役職を誰に任せるか、話し合いで決まります。以前は男性がほとんどの役職を占めていましたが、今日では徐々に女性の村長も出てきており、ジェンダーを超えて村のことを理解し、村の外の世界にも精通している人たちがリーダーとして選ばれる傾向にあります。カルゴの数は村の規模によっても決まりますが、下部には委員会というものも存在し、教育や医療などの重要課題の対応を担当しています。その委員会も含めれば、家族の一人が必ず一年に一度は何らかの役職にあたることになります。さらにカトリック教会関係の仕事もカルゴであり、それら全てが無償での奉仕になります(注7)。この教会関係のカルゴというのは次に触れたいテーマであるフィエスタ・パトロナル(聖人祭)と密接な関係を持っています。

祝祭、贈与と瞬間の美学

 北部山地の聖人・聖母祭は贈与の本質とその爆発を感じられる経験です。そこに見られるのは生命の瞬間のきらめきなのだと僕は思います。これは先述のレキル・クシュレハルにも明らかにつながるものでしょう。一年のこの瞬間のために、人生が収斂されるような、そんな感覚があるのです。
 お祭りの日程は、実に祝祭の日の9日前のミサであるノベナリオから始まり、徐々にボルテージを上げて行って、クライマックスである聖人や聖母の生誕祭に至ります。

資料14 ソチーラのカレンダにおいて共同食堂でハラべ (注8)を踊る人たち
(著者撮影 2019.01.31)

 中でも最も多くの来訪客が来るのは本番の2日前のカレンダと仕掛け花火カスティージョが盛大に燃える本番前日、そして当日の3日間です。このカレンダというものは夜に始まり、村全体を楽団と一緒に練り歩き、要所で止まってはハラべを踊るということを何度も繰り返し、最後に明け方になって村の教会に行って、最後の演奏と踊りを聖人・聖母に披露し解散となります。カレンダは祭り本番の始まりを告げる合図であり、コミュニティが再統合・再生し始める瞬間なのです。都市や外国にバラバラになっていた家族たちも集い、通りを埋め尽くした人たちがメスカル(注9)を片手に村を練り歩くのです。
 カスティージョは、塔のように高く建造された仕掛け花火のことであり、暗がりの広場を短い間昼のように明るく照らします。その間も楽団の音楽は鳴り止まず、皆ビールやメスカルを飲んで踊り続けます。このカスティージョは本当に数分で終わってしまうのですが、これには実は多大な費用がかかっています。ジョルジュ・バタイユ(2018)の普遍的経済学を想起させる、圧倒的な剰余の浪費の典型的な例だと僕は思います。

資料15 ソラーガの聖人サン・アンドレスに奉納する伝統舞踊(著者撮影 2019.07.19)

 夜の喧騒の傍ら、朝は毎日厳かにミサが執り行われ、多くの人が聖人・聖母を一目見ようと来訪します。日本の神仏への願掛のように、村人の中には聖人・聖母にお願い事をする人も多く、その願いが成就した暁には返礼として、村祭りに牛を贈ったり、聖人・聖母像に使うための毛髪、聖人・聖母像用の刺繍入りの服、カスティージョにかかる費用を寄付したりします。これは近年の移民の村に対する贈与とも密接に関係しており、複雑な贈与関係を構築しています。 
 最終日は役場の人たちが決めたバンドやグループがやってきて、夜明けまで盛大に飲んで踊ります。このように、体力と肝臓の強さがものを言う3日間ですが、この無礼講の日々が毎日の静かな暮らしとはコントラストを作り出し、村の一年の流れを決定づけているように思います。それだけに、ここ2年間のコロナ禍で訪問客を受け入れられない状況が続いていることは、多くの村にとって自分たちのアイデンティティを再生・再規定する機会を喪失していることを意味します。
 さて、先ほど外にいる人たちが村に帰って来るという話をしましたが、北部山地では1970年代ごろから、米国への移民が頻繁に行われてきました。人口増や農作物の不作などが原因で多くの村人がカリフォルニア州に新天地を探したことがその発端です。今ではビザを有する人や米国で生まれた人も多いのですが、中には村との繋がりを失うことなく、祭りの度に帰って来る人たちもいます。
 この移民たちは米国、メキシコシティ、オアハカ市などで、テキオに参加せずとも土地へのアクセスを有することができるという条件のもと、村への送金を続けています。もちろん、数年間だけ行って帰ってきたという人たちも村には多くいます。以前は「自宅を建てたい」、といった必要性にかられての移民がほとんどでしたが、現在は村でも農業や商売をやりながら暮らしていける裕福さがあるので、むしろ若者が米国での生活にただ憧れて移民するようなケースが目立ちます。しかしそれも正規ルートで、米国籍の移民2世や3世と結婚してビザを獲得するという方法が一般的になっています。
 祭りの日々には移民のみならず周辺の村を中心に非常に多くの人が来訪します。中でも音楽団(注10)は大所帯で関係者も含めるとかなりの人数が食事を必要とすることになります。そのため、訪問者や楽団のメンバーを含め誰でも入って食事をもらうことができる食堂を村側は準備しなくてはなりません。そのため、祭りの期間には牛がまるごと一頭(村の規模によっては複数)、有志から提供されます。この有志が移民であることはしばしばで、米国での稼ぎを聖人・聖母との願掛けが成就した際に、村に対して提供するということは非常によくある話です。
 聖人との約束として、贈与された牛は結果的に聖人像の口に入るわけではなく、来訪者や他村の楽団メンバーに食されます。その調理も村の人たちの手で行われ、食堂にきた人には誰でも食事を提供します。牛肉のスープに大判のトルティージャがここでは一般的で、招待客は心ゆくまで食べられますし、またお酒などの飲み物も勧めてもらえます。ここには入れ子状になった贈与の構造があり、各人が村に共同寄託したものが皆に消費されるという、贈与の爆発ともいうべき流れをみることができます。

資料16 提供された牛は屠殺され余すことなく食される(著者撮影 2019.01.30)

 また、祝祭の日々に、これをどこの村でもやっているということは、結局もちつもたれつの関係になっているということなのです。各村に聖人・聖母が一人ずつは必ずいることを想像してみてください。つまり、大げさに聞こえるかもしれませんが、北部山地全体を見回せば、毎週のようにどこかでお祭りがある、ということになるのです。あまり遠いところだと大変ですが、近場であれば近隣の村の人たちは必ず行きます。
 北部山地では、祝祭の中でそうやって贈与が循環しているのです。人類学者のグレーバーは祝祭を一時的自律圏(Temporary Autonomous Zone)と呼び、その中において人間が自由に(であるかのように)生きられる瞬間が創出されると言っています(2006: 133)。山の澄み切った空気の中、楽団の音楽をバックに、多くの人たちと瞬間を共有する。そこにある自由の感覚は、何ものにも代えがたいものです。

メスカル作りの現場に入る

 僕が北部山地で何度も通ってきた村であるサンティアゴ・ソチーラでは、メスカルの生産が有名です。リュウゼツラン(アガベ)を蒸留して作る蒸留酒は、オアハカのみならずメキシコの多くの州で作られており、言わずと知れたテキーラもメスカルの一種です。テキーラに比べ、石窯で蒸し焼きにしたアガベを使うメスカルは、近年その芳醇さとスモーキーな味わいが認められ、愛好家が増えています。また、以前から蒸留酒製造はスペインが入ってきてからのものだという通説が一般的に受け入れられていましたが、近年の研究ではそれが遺構などから先スペイン期にすでに行われていたことが明らかになっており(Serra, 2016)、近頃ではその文化的背景なども売りの一つとなっています。
 北部山地でお世話になっていた大学のフェルナンド先生がある日、その村に挨拶がてら向かうということで同行したのが僕のメスカル人生のスタートだったと言えます。それまで何度もメスカルを飲んだことはあったのですが、村の土地の滋味を蓄え、天然の資源だけで育ったアガベで作られるメスカルの味は格別です。当時村長だったカルロスに挨拶したら、まずは駆けつけ一杯(?)なのでしょうか、歓待の印にメスカルを一杯もらいました。そのうまいこと、形容しがたいもので、すっかり気分が良くなっていると、今ちょうどメスカルを作っているから見に行ってくればどうか、とオファーをもらったのです。
 パレンケ(注11)に着いてみると、15人ぐらいの男たちが談笑しながら働いていました。日本人がパレンケに来るという珍しい事態に加え、その日本人が酒好きときたので、みなとても歓迎してくれました。北部山地ではこういった力仕事を伴う作業には必ずビール、ジュース、そしてメスカルが供されており、みな少しほろ酔いになって冗談を言い合いながらも作業を続けます。

資料17 アガベ畑で談笑するエクトルとレイナルド(著者撮影 2019.06.14)

 相変わらず、なんでもやってみるタイプの僕は、まずアウエウエテを木槌でつぶすという作業に参加しました。そんなこんなで、2日目は、荷運びやマチェテを使っての蒸したアガベ割りに参加し、一日中パレンケに滞在しました。多くの作業の中でも特にきつかったのは4日目にやったアガベの刈り取り・運搬作業でした。
 朝早くにトラックの荷台に立ち乗りで皆と栽培地まで向かいます。傾斜がほとんどの北部山地は、耕地が車道から遠いことも多く、その距離に比例してアガベの運搬作業も過酷さを増します。エスパディンと呼ばれるアガベは一つで100kg以上あるものが多く、2等分か3等分にしても40-60kg近いものをメカパルという頭部と首に負荷を分散する道具を使って担ぐのです。これが、噛み締めた歯の間から血が滲みそうなほど、とても重いんです。
 そして、車道までの距離が遠い。とても大変な思いをして北部山地ではメスカルを作っているということが身にしみてよく分かりました。それだけに、もっとこの努力が評価されて、そして生産者に利潤がしっかりと回るような形で、各企業や個人には責任のある買い取り方をしてほしいものだと思います。

資料18 60-70kg近い大型のアガベを担ぐオマール(著者撮影 2019.06.14)

 気がついたら5日も滞在させてもらっていたのですが、さすがに衣類も底を尽いたので、村祭りに戻ってくることを約束して、その時は一旦拠点としていたイクストランに帰りました。後ほどわかってきたことなのですが、この作業に参加していた人たちのほとんどはカルゴとしての仕事(つまり無償)をこなしていたということだったのです。北部山地でカルゴとしてメスカルを作っている村はとても稀なケースだと思います。売り上げは全て村の資金となり、村祭りや住民のローン、メスカル関連のインフラ整備などに充てられます。
 時は経ち、昨年の四月にこの村の仲間たちと共にメスカルのブランドを立ち上げました。立ち上げたといっても、もともと長きに渡り生産されて来たものに改良を加え瓶詰めし、販売しやすいようにした、というだけのことです。コロナ禍で巣篭もり需要が増えたことを受けて、メスカルブームも加速傾向にあることから、生産者からは安く買って、消費者には高く売るという仲買販売が増加して来ました。ソチーラの各生産者にもオファーが来始めましたが、そのどれもがあまりに格安でもはや慇懃無礼だとすら僕は感じています。そこで、急遽我々自身でブランドを立ち上げてメキシコシティで積極的に販売していきましょうという話になりました。
 そうすることで売り上げ利益のほとんどがコミュニティでのアガベ再生産に還元される、まさに連帯経済としての販売網の成立に着手しています(注12)。

変化の中のコムナリダ

 2年ほど前、日本のある大学紀要に、上記で触れたような内容をさらに詳細に記した記事を投稿したところ、不採用になりました。その査読者の評の中で、内容が随分昔の先住民のものなのではないかと指摘をもらっていたことを覚えています。それぐらい、なかなか信じられないような贈与的関係が、スマホも普及した北部山地の中で未だに息づいています。コムナリダの提唱者たちも、この村々での生活の特殊性をなんとか言語化したいという思いがあったのだと思います。
 もちろん世界は変遷の中にあり、北部山地先住民の生活も近代化され日々変化がある状況は否めません。まず、サポテコ語の話者が目に見えて減ってきています。今50代ぐらいの流暢な話者たちが亡くなる頃には、各村が大半の話者を喪失してしまうことになるでしょう。ここ20年ぐらいでサポテコ語教育に注力しなければ手遅れになってしまうと思います。それだけ都市部からくる同化の流れにはなかなか抗しがたいものがあるのだということです。 
 移民もまた大きな問題です。若年人口の喪失は、カルゴを担っていける次世代の人材の不足を引き起こし、村の運営の大きな足かせともなっています。リーダーとしての資質を持たないものも重要職に選ばれるようになっており、新たなイニシアティブが全く立ち上がらない年もあります。この機運の上下は自治コミュニティにはつきものなのですが、一年で役職が交代するという汚職にブレーキをかける制度が存在する功罪とも言えるかもしれません。
 また、役場にも政府のプロジェクトなどで大量の資金が流入するようになっています。インフラ整備などがその主な目的なのですが、経理情報開示制度がコミュニティ内部ではまだまだ甘く、その時の出納係が村の財源から盗みを働いたりするような事態が頻発しています。しかし、村の人たちも横領があったことをわかっていながら、議会で断罪するということができる村はまだまだ少ない状況です。情報開示を徹底することで資金の流れを透明化することが優先課題です。
 特にこの問題は、エンジニアと呼ばれる、インフラ整備を大学で専攻してきた外部の人間が、役場の人間に取り入って、仕事を優先的に受注し、結果的に出納係や村長と結託して利益を中抜きするというカラクリがあります。ロペス政権下での今までにない規模感で資金流入が起こっているにもかかわらず、政府側の情報開示義務の甘さが、次々とこのような事態を招いているのです。
 しかし、コムナリダ提唱者のハイメ・マルティネス(2013)は言います。北部山地は外部からの文化的侵入に絶えず悩まされてきましたが、「強制-反抗-最適化」という弁証法的方法で、外部の異なるものを取り込んで自分たちのものにしていく能力を持っているというのです。ですから、言語が喋れなくなっても、伝統衣装を着なくなっても、儀礼の慣習を失っても、村に対しての奉仕の心は忘れない。つまりは村に負う気持ちを忘れず、ゆえに移民になっても役場に対して送金し、祭りに寄付し、カルゴが当たれば帰って来ることもある、というわけです(Maldonado, 2003: 15)。
 実際にコロナ禍で、若者たちが村に戻り、農業や牧畜業を再開したりしています。今まで休耕地となっていた場所に一気にトウモロコシが植えられ、食料自給率が目に見えて上がったという側面もあります。オアハカの自治はこの柔軟性を持ち合わせており、喪失されていたかのように思われたものが集団的記憶の中から再帰する可能性を有しています。若者たちを見ていると楽観視もできませんが、悲観することもないという感じで、北部山地の自浄作用には期待が持てます。
 当該地域に滞在していた1年、お世話になった先述のフェルナンド先生は言っていました。「我々にはコムナリダがあるんだ。だからいつも贈与を動かす物語・倫理は再生する。でも都市の人間は、どうするね。」、と。コムナリダは集団的に、制度的に贈与関係を再生産できるようなシステムを持ち合わせています。この物語というのは、贈与倫理につながる思考及び経験のことを指します。では、都市部の分断された僕らをつなぐことができる倫理とはどういうものなのでしょうか。ここに来て、もとは経済的な興味から始まったはずの研究が、徐々に哲学的なアプローチの必要性へと変遷してきたことがご理解いただけると思います。これこそが、モースの言った全体的社会的事実・全体的給付の意味なのだろうと改めて考えさせられます。
 最後にソチーラのメスカル生産者であるホセの言葉を引用して、その一例を示したいと思います。以下は、ホセがマンゴーの木を(誰が食べるかもわからないのに)どこにでも植えるといって奥さんに怒られていた時に、彼が用意してきた反論です。

「・・・人生の長きにわたり、僕は他の人が植えた木のマンゴーを食べてきた。自分の植えたものが他の人に行き渡ればこの上ないことだ。いつも僕らは誰かに与えられる何かを持つべきなんだ。木々は川を、大地を、太陽を、月を、星をもたらす。ならば、僕らのその卑しい気持ちから自分だけが果物を集めてしまいこんで、自分は何も他の人にあげたくないという気持ちはどこからくるのだろうか。どれだけ貧しかろうと、何かあげるものはある。他者にとって気持ちのいい思考、言葉、とびっきりの笑顔、感動、歌、手助け、等々傷ついた心を癒す方法はいろいろあるじゃないか。」

ホセ・エルナンデスとの会話(インタビュー日2020.02.29)

 北部山地にはこういった個人的な話や、昔話、経験談が山ほどあります。それらが繰り返し再生産される以上、時代が変遷しても贈与的関係(つまりコムナリダ)は容易に消えることはないでしょう。


第二章 オアハカ篇脚注
1. 中央アメリカを指す言葉だが、先スペイン期の他地域からの干渉がなかったという意味では一つの文明ブロックとして捉えることができる(Pipitone, 2006)。
2. ソゴーチョ周辺地域は7つの行政地区(municipio)であるSan Bartolomé Zoogocho、Santiago Zoochila、San Andrés Solaga、Santa María Yalina、San Juan Tabaá、Santiago Laxopa、Yatzachi El Bajo、及びそれに付随する8つの村(agencia)Santa María Tavehua、Santo Domingo Yojovi、San Jerónimo Zoochina、Yatzachi El Alto、Santa María Yohueche、Santa María Xochistepec、Santa Catarina Yahuío、San Sebastián Guiloxiにて構成されている。メキシコ国土地理院のデータによれば、2010年時点で人口5093人。
3. カルゴシステムは元来スペインによって導入されたものだが、その内容や意味は時代とともに変容し、贈与を循環させる人間を作り出すシステムとなっている。本文を通じて触れている社会では、教育というものが、家庭や学校というものだけで完結するわけではなく、共同作業や役場での仕事を通じて獲得されて行く。翻って現行の教育体制では、資本主義社会を維持する道具として我々が常に再生産される。
4. この互酬の3形態とは、一般的互酬性、均衡的互酬性、否定的互酬性の三種類である(サーリンズ 2012)。
5. 今日ゲラゲッツァは、毎年オアハカで7月に行われる民族舞踊の祭典として有名となっているが、本来の語の意味は北部山地のゴソーナと同じ相互扶助としてのものである。民族舞踊にはその名残として、踊りの後に観客に出身地方の名産品やお菓子などを投げるパートがある。
6. この点から、山田広昭氏(2020)は共同体の贈与関係が、祖霊とまだ見ぬ子孫をも含んでいることを指摘している。
7. 原則無償が基本なのだが、貨幣経済の浸透により、近年では全く無償でということが難しくなってきたこともあり、村によっては年末の役職終了時にまとまったお金が渡されるケースも増えていている
8. ハラべとは北部山地のお祭りに欠かせない地域独特の楽曲であり、金管楽器と太鼓をメインにした各村の楽団が祭りの様々な機会に演奏を披露する。写真の通り、村人や訪問者たちは二人一組になって踊るのだが、一曲が15-20分近いことが普通で、終わる頃には皆汗だくになる。
9. 竜舌蘭から作られる蒸留酒。詳しくは事項参照のこと。
10. フランス由来と言われるこの金管楽器楽団を各村が有しており、カルゴの一環としてメンバーは日々練習に励んでいる。北部山地ではゴソーナとして村同士で楽団を祭礼のために貸し出しできるようになっているが、近年ではお金を払って参加をお願いすることも多い。楽団は村の各種イベントにとって欠かせない存在で、多くの楽曲は北部山地オリジナルの作曲であり、優秀な音楽家たちを大量に輩出している。レパートリーも多く、楽譜もなしで何曲も演奏を続ける姿は圧巻。
11. メスカルの製造所のこと。基本的に石窯、タオナ、発酵のための樽、蒸留器具が揃っている場所を指すが、一部もっと伝統的な製造方法を踏襲していたり、あるいは機械化していたりもする。
12. 興味がある方は以下インスタグラムのページをご覧いただきたい。日本での販売にはまだまだ至らないが、いずれは考えたいと思っている。
https://instagram.com/mezcal.lhashdauyesh?utm_medium=copy_link

本文は月出工舎における展示「旅のかたち」にて参考資料として作られたものである。

結論へ続く→


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