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アート合宿3日目

今日はしゅんさんと面談してから、キャンパスに移った。最初しゅんさんには「ストは、、もうこのままで大丈夫だよね?」と言われて、面談がスキップされそうになったけれど、しっかりと対話してもらった。

しゅんさんとの会話は日本語を話しているんだけど、音の振動、波動、そういう対話なのでエッセンスで残しておく。

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私は音を出し続けており、それは言葉じゃない領域。お腹のあたりに宇宙がある。お腹から出る響き。私にとって当たり前が、みんなのあたりまえじゃない。私は言葉を発するときに喉からお腹までの間が振動しているのを、前から知っていた。

言葉を言葉として扱っていない。人と分かち合うための記号としての言葉。音が音のままの世界、色や形で表すのを許してあげよう。

私は抽象度と臨場感の両立、バランスがうまいし、天才性というのはそういうもの、というのがしゅんさんの世界観。私は言葉の引き出しが多く、言語化力が高いのだと思っていた。実際そういう側面もある。しかし、言葉に音を乗せているのではなく、音に言葉という記号を乗せていたのかもしれない。

私は、みんなにそれぞれハマるビスケットを、どこから出してる?

教会とは元々神というものをあらゆる手段で表現したものだった。讃美歌、建造物、ステンドグラス。それぞれがアートとなることで、神と表現が切り離されている。仮に私が神であると表現したとして、内側にある宇宙を何で表現する?

これまでは言葉として出して、視界にギリギリ入る範囲から繋がりたい人と繋がることができた。そこから色や形へ。より抽象度を高めていく。

不確実性から作ってみよう。例えば、目をつぶって作って見る。絵を重ね合わせる。絵具を拭く。分からないまま、イメージがないまま出してみよう。伝えない。伝えるは恣意的。色と遊んでみよう。

ストは持っている力を賢く使う責任があるんだよ。
背負うということではなくね。

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Dec, 28. 2020 23:53

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