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ドイツが認めた食肉加工職人、ゲゼレの紹介 〜馬場夏樹篇〜

メッツゲライササキで働くゲゼレ(技術や知識の力が認められた人に与えられるドイツの国家資格)を紹介する企画、前回の関進一に続く2人目は現在タカラ食品の出荷課長を務める馬場夏樹です。社内でさまざまな職種を渡り歩いてきた彼ならではのエピソードが語られます。

気軽にポジティブに、実践の場に飛び込んだ。

こんにちは、現在タカラ食品出荷課の課長を務めている馬場夏樹です。3月までは製造課長を担っていました。これまでに営業や新工場計画のプロジェクトマネージャーなど、さまざまな部門を経験。工場内でも、包装、製造、出荷まで全てを回ってきた数少ない人間だと思います。

そんな私が、どうしてドイツで修業をすることになったのか?経歴を見て分かる通り、私は職人として育ってきたわけではありません。でも、ドイツの文化や食に興味がありました。始まりは、渡独する2004年に、突然「行く気はあるか?」と聞かれたこと。最初に渡った職人気質の関とはまるでタイプが違うので、どうして声をかけられたのかは謎でしたが、キャラクターが違うからこそ選ばれたのかな、と今にして思います。

社長からの提案を二つ返事で受けて、ドイツ語は全くわからない状態で出発。海外に住むのは初めてだったけど、あまり不安はなく「どうにかなるかな」と、ここで私の前向きな性格が出ましたね。最初の1年は自分のことで手一杯になるだろうと単身で過ごし、その後当時婚約していた妻を呼び寄せました。「720日くらいの新婚旅行だと思ってください」と。3年目には長女も生まれ、ゲゼレの試験に通院に、となかなか忙しい日々でした。妻の体について大事な言葉を聞き逃さないように、ここでようやく語学を勉強しましたね。それまでの語学は実践型。ちょうど受け入れ先のヴェーバーさん一家にもお子さんが生まれた頃だったので、赤ちゃんが言葉を覚えるのとほぼ同じスピード・同じやり方で身につけていたんです(笑)。

ドイツ人と切磋琢磨し、優秀な成績でゲゼレに合格。

実は関が帰ってきてから時期を空けずに渡ったので、特に具体的なアドバイスはもらっていないんです。どんな作業をして、どんな苦労があったのか、など聞く時間はありませんでした。とはいえ関が土壌を築いてくださったからこそ、スムーズにいった部分はあったと思います。実際、住むところも車も、関から引き継ぐことができたのはありがたかったですね。みんなから「日本人アレルギー」みたいなものを感じることもありませんでしたし。これは本当に、関のおかげだと思います。

毎日の作業は関の時と同じで、屠殺、骨抜き、生地作りなど曜日によって作業が分けられていました。その中で自然と役割分担が決まっていて、半年に1回ほど入ってくる新しいスタッフによって、その分担が変わっていくような感じでした。大変だったことといえば、私はあまり身長が高くないので、テーブルや便座など全ての高さが合わないこと。作業台が高すぎて力を込めづらく、変なところにタコができることもありました。

体力的に辛い部分もありましたが、家族の存在もあり、精神的な辛さは感じずに済みました。とにかくヴェーバーさんの名を汚さないように、と好成績でゲゼレをとることが目標で。試験は、きちんと修業先で技術を身につけてから受ければよほどのことがなければ落ちることはないんです。でも自分としてはいい成績を残したかった。そういうプレッシャーもありましたね。結果としては、受けた3教科すべてで最高評価をもらい、卒業式では特別賞をいただきました。

ドイツのものづくりと文化に惚れ込んで。

どうしてそこまでできたかと言えば、やっぱりヴェーバーさんが作っている商品のレベルが高いからだと思います。日曜日に観光地で買ってくるものを食べると正直「うーん」という味のものもあって。ヴェーバーさんの店では商品レベルが高い割に従業員がすごく少なくて、仕事量がとても多いんですね。そうすると自然と自分の技術も上がってくるんだと思います。従業員の質も高かったと思います。少なくとも、自分が一番使えなかったんじゃないかと思います。

彼らの気質なのかもしれませんが、ドイツ人ってみんな自分がナンバーワンだと思っているところがあると思うんです。もちろんいい意味で。すると「隣のやつより早く骨を抜いてやろう」と、作業中はすぐに競争が始まるんです。日本人は競争を避けたがるところがありますが、その点で私の上達スピードも上がったのではと思います。「早く上手くできるあいつとは、何が違うんだろう」と研究できたりして。

本来は3年目の7月で修業は終わりなのですが、手違いでビザが10月まで取れていたんです。「それならもう少し残って、手伝ってくれ」とヴェーバーさんに言われ、社長に電話して3ヶ月延長することに。最終的にはビザが切れる1日前まで働いていました。日本に帰りたくなかったほどですよ。ドイツ人との会話って、言葉のまんまを理解すればいいんです。裏を読まなくていいのがすごく楽で。たとえばミュンヘンの駅でタバコを吸いたいのにライターがなかったとしましょう。じっとしていると何もしてくれないけれど、一言「火、ちょうだい」と言えば、周りから3人くらい出してくれるんです。そんな感じが心地よかったんですね。

ときに職人として研鑽し、ときに営業として裾野を広げるオールラウンダーに。

日本に帰ると、関によってドイツ流の商品が増えていました。ドイツで食べてきたようなものがすでに日本で作られ始めていて、よかったなと思いました。今度はこれをブラッシュアップしていくのが仕事になりますね。それから1年くらいは、カッター(ソーセージの生地を作る重要な役割)を担当しました。ドイツと日本では肉の質が違うので、配合を調整するのが難しいんです。今でも、正解がわかりません。

帰ってきてすぐはヴェーバーさんのところの味が頭にありますよね。でも日本にある肉で作ろうとすると、どうもピントが合わないんです。「レバーケーゼ」は、何回も何回もやり直して配合を考えたのを覚えています。塩ひと振りとか、本当にそのレベルでの試行錯誤です。

自分で納得できるものって、毎日ソーセージを作って1年に1回できたらいい方。大体は合格点スレスレです。100点は滅多に出せません。いいものは生地の光り方が違うんですよ。気温や湿度、材料の質など、毎日条件が変わるので、毎日感覚で調整するしかないんです。ベストなパフォーマンスを維持するためには、毎日刃を研いでおくこと。「ナイフは切れる状態をキープしろ」とヴェーバーさんにもうるさく言われましたっけ。切れないナイフだと断面がザラザラして表面積が多くなり、菌が発生しやすくなってしまうんです。

ヴェーバーさんに厳しく言われたことといえば、もう一つは温度のこと。日本とは違って、原料肉の温度管理を重要視しているんです。“菌をどれだけ増やさず加熱工程まで持っていけるか”を大切にしているということですね。作業台に少し置いていると、すぐに怒られました。一方日本ではどちらかといえば「加熱して殺菌する」という考え。この辺りはまだまだだなと思います。

その後社内で部門を転々とするなか、ゲゼレとして技術や知識を身につけたことはいろんな場面で役立ってきました。営業ではゲゼレという肩書きが私の言葉に説得力を与えてくれますし、会社としての信用を得やすい手応えがあります。商談相手が料理人の場合には、お互いに理解を深めながら契約をまとめられますね。三越伊勢丹の宅配サービス「ISETAN DOOR」にはハンバーグを提供していますが、監修として私の名前が載っていますよ。

安価でいいものが作れるようになりたい。

いい肉でおいしいものを作れるのは当たり前の話。でも業務用商品ってある程度価格が決まっていて、その中でおいしいものを作らないといけないから材料が限られてくるんですね。どうしても、水や澱粉を加えて固めるようなレシピの大手メーカーには負けてしまう。私も知識はそれなりにあるので、低価格帯でおいしいものが作ってみたいですね。「メッツゲライササキ」の商品はやっぱりまだ特別な日のために買う人が多いですが、日常的に楽しんでもらえるものができるといいなと思います。

そしていつか、私が修業したドイツへ娘を連れて行きたいですね。ヴェーバーさんのお子さんとの再会も夢です。