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タビニウム

財布の中に覚えのない恋みくじが入っていて、開くと大吉だった。
一体何年前のものだろう。

僕はまた、後ろ向きに進むボートを漕ぐ。
かつて並んで進んでいた友達の姿はとっくに見失った。


タビニウムという元素がある。正確には、存在していると僕が思い込んでいた。それは何の役に立つわけでもない元素なのだが、タビニウムを思い浮かべるだけで、なぜか元気が湧いて、胸に渦巻く不安な気持ちがどこかへ行ってしまうような、そんな元素だった。今となってはもはや、どんな形をしていたかさえも思い出せないのだが。

タビニウムは存在しないのだ。それが正しい世界の形なのだと自分を納得させたまま、ただ僕は流れに乗ってボートを漕いでいる。


世間一般から見ると、荒れた中学校生活だったんだと思う。割れた窓が段ボールで塞がれていたし、校舎のトイレは生徒お手製の火炎瓶で燃やされた。死んでやると息巻いて窓から飛び降りようとした生徒を担任の教師が制止しようとしたものの、勢い余って教師自身が窓から投げ出されたこともあった。
とはいえ、全くの堕落した不良校というわけでは無かった。その中学校では先生による理不尽な体罰が日常化していて、絶対悪である教師達と自由を求める生徒達が衝突するという強固な構造があった。そのため生徒同士は互いに助け合うことが多かったし、不良を含めた生徒同士が教室で将来の夢を熱く語っているのを度々目にした。みんな若さゆえか、信念や理想を各々胸に秘めていて、大人による弾圧が許せなかったのだろう。
そんな彼らと違い、受動的に生きることを良しとし、何かのために命をかけるほどの熱量や度胸を持っていなかった自分は、自浄作用に従うようにいつの間にか世界から弾き出されていた。


そうして1人でしばらく進んでいた頃、僕が来たほうと違う方向から、笑ってしまうくらい不器用にボートを漕いでくる人が見えた。
流れに逆らう自分のボートをなんとか進めるのに必死な彼女は、僕にしばらく気づいてくれなかったけれど、じっと視線をやっているとやがてこちらに気づき、照れ笑いしながら手を振ってくれた。それでなんだかホッとして、ふとタビニウムのことを思い出したのだ。
一瞬の邂逅だった。お互いに違う方へ進んで、すぐに見えなくなった。もう一度会うことも多分無い。
また不安になった時は、無くしてしまったタビニウムを思う代わりに、二度と交わることのないであろう不器用な彼女の航路の無事を祈ろうと思う。彼女の存在もいずれは無かったものにしてしまうんだろうけど。

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