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84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その二十

息子は大学卒業後、東京の企業に就職しました。

家を出たかったのでしょうね。夫は少し寂しそうでしたが、夫と同じ業界の大手企業でしたので、頼もしくも感じていたようです。

息子は、長女とは十、次女とは八つ離れていて、小学校に入った頃には姉たちは高校生だったので、自分一人だけが子供でつまらない、とにかく早く大人になって働きたいと言っていました。ですから就職が決まった時はとても喜んで、東京での一人暮らしに胸を躍らせていました。けれども実際に行ってみると、家賃は高いし、とにかく何をするにもお金がかかるといって、実家の有難さにようやく気が付いたようでした。

しばらくはしょっちゅう次女の家に出入りしていたようですが、子供の頃から大家族でしたので一人暮らしが寂しかったのか、2年後には大学時代からお付き合いしていた彼女と結婚。1994年3月のことでした。

一方、夫は足の大手術をして以来タバコをやめて、大好きなゴルフにも行かなくなり、バブルも過ぎて、世の中全体が下降気味で、息子が東京に行くと家の中は夫と母と私だけになって、とても静かでした。

子供たちがいなくなると、私たちの楽しみは食べることのみ。どんなに喧嘩をしていても、「おなかがすいたので、休戦。続きは食べてから。」という感じ。今頃の時期は、京都の友人が毎年近くの山で掘り出した新鮮な筍を4~5本送ってくださったので、このために植えた木の芽を庭から採ってきて「木の芽和え」、おあげを刻んで「たけのこご飯」、新物の生わかめで「若竹煮」、若竹を鰹節で煮た「土佐煮」。何度も言いますが食べることは基本なので、おいしいものがあれば喧嘩も中断できますし、結果おいしくできたら、喧嘩も忘れます♪

喧嘩と言えば…
息子が上京してから12年目に、勤めていた会社で上司と喧嘩したことがありました。それまでも色々あったようですが、この時はかなりやり合ったとかで、やめる覚悟もしていたようです。とはいえ、当時は彼の娘は小学生になったばかりでしたし、その先のことを考えると軽はずみなことはできません。

そんな時、尊敬するお義父さんから「魚屋をやれ!」と言われたそうです。あまりにも突拍子もない言葉に驚きましたが、お義父さんの言う魚屋は「明治元年創業の『尾辰商店』という築地の仲卸業の5代目の看板を継げ」というものでした。

ただの魚屋ではなかったのです。それまで全く縁のなかった職業ですが、子供の頃からお魚が大好きで、家族のだれよりもきれいに魚を食べる息子でしたので、タイミングも良く、かなり心が揺さぶられたようでした。それから何度も仕事の合間に築地をのぞきに行って、お店や築地全体を観察し、いろんな人と話した結果、本来看板はその子供が継ぐものですが、代々親の仕事を見てきた子供とは違ってプレッシャーもなく、看板の重さも感じることなく、しきたりも知らないし、自由な発想で好きにできることに魅力を感じ、何より、このタイミングにいただいたご縁を大事にしたいと、会社を辞めて5代目の看板を受け継ぐことを決めました。

「魚屋になる」と聞いたときはびっくりして、心配で、次女にこっそり様子を見にいってもらいました。活気のある築地市場で、向こうから歩いてくる弟はどこから見ても魚屋だったと聞いてホッとしましたが、内心はやって行けるのだろうかと複雑でした。

年が明けて夫と築地に行ってみましたら、小学生の孫がお店で木箱の上に立って、帳面を広げてお父さんのまねをしている姿が板についていて、高齢化が目立つ市場に、ここだけ光がさしているように見えたのは親馬鹿でしょうか…(笑) 

安心すると、夫も私も魚が大好きなので、それ以来食卓がとても充実したことは言うまでもありません。毎年お正月の2日は家族が集まって、てっちり(ふぐの鍋)でお祝いするようになりました。

今日は息子が送ってくれた大好きなイワシの開きときつねうどんでお昼にします。

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