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84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その六

中学3年生の終わりに父が新しい家を建てて初めて自分の部屋ができたので、うれしくて毎日がとても楽しかったです。でも、その喜びは長くは続かず、2年生の3月、父が47歳で、喉頭結核で亡くなりました。半年前からほとんど寝たきりの状態だったので何となく察してはいましたが、母と兄弟を集めると、「世話になったけど、いよいよ力尽きた。後をよろしく頼む」といって、逝きました。昔の人はしっかりしていましたね。

けれど、家を建てたばかりだし、借金だらけで途端に収入もなくなり、学費も払えなくなりました。当時の担任の先生が、あと一年で卒業だからと育英資金をもらうように勧めてくれて、なんとか卒業まで通えましたが、生活は一変しました。夏冬のお休みはプリマハムでアルバイトをし、高校卒業後はそのままプリマハムに就職しましたが、福島の会社までが遠い上、仕事場が大きな冷蔵庫のようなものなので、肺結核になるとお医者さんから止められ、1年でやめることに。一方、父のつくった会社は、資金を出してくださった方が社長になられたので、父は重役でしたが、父と親しくされていた他社の方が、父の会社の立て直しを手伝われていて、「金子さんのお嬢さんなら」と、働かせていただけることになりました。

そこで、夫に出会いました。同い年で、彼はここでのお勤め以外に、岸和田の恩師のそろばん塾で教えていました。

私の結婚条件は何といってもルックスなので、鼻が高くて、背が高くてスラッとしていて、バーバリーのコートがとてもよく似合っていて、ほぼ一目ぼれでした。もう一人、私を好きな人がいて、二人でどちらが私と結婚するか賭けていたみたいですよ(フフフ…)

彼は勤めが終わると、珠算塾での仕事があるのですぐに帰ってしまい、なかなかデートはできませんでしたが、会社の近くで行われたのど自慢大会に私が出ると言ったら見に来てくれました。「ここに幸あり」を歌ったのですが、鐘は二つ…笑っていました。でも、うまいねと言ってくれて、二人でお好み焼きを食べに行きました。当時は何かといえばお好み焼きでしたね。それからはよく映画を観に行きました。佐田啓二と高峰秀子の「喜びも悲しみも幾年月」を観て、二人で感動しました。同じものを良いと思える感覚は、大事ですね。

昭和30年頃の千日前デパート

一年ほど経ったころ、会社の帰りに市電の手前で「結婚してほしい」といわれました。その瞬間、「この人と一緒にいた方が良いかも」とビビビ…と何かがひらめき、「はい」と即答しました。私の母に紹介すると、面食いは母譲りなので、もちろんOK。得意の中華料理でもてなし、夫もイチコロでした(笑)

今夜はデートを思い出して、お好み焼きにします♪

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