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音楽をかけると文章がかけない

音楽を聴くのが好きだ。

料理をしている時。
眠ろうとする時。
掃除機がけをしている時。
シャワーを浴びる時。
通勤をしている時。
勉強している時。

自分の好きな曲がかかっていると、なんてことない作業や、気が進まないことでも、楽しい気分で取り組むことができる。
疲れていても、身体が軽くなる。

外に出て、ワイヤレスイヤホンの充電が切れるようなことがあると、本気で病んでしまう。
そのくらい、音楽を聴くことは私の日常に溶け込んでいる。


けれども、文章を書くときだけは別だ。
大学のレポートしかり、就活の自己PR書しかり。どんなものでも。例外はない。
音楽はかけないようにしている。


それほどに本気になって書いてるんだ




…という高尚な話でもない。

ただ、ただ音楽が流れていると文章がかけない。昔からそうだった。


歌詞があっても、なくても。洋楽でも邦楽でも作業用BGMと名がついていても。
かけなくなる。

もっといえば、テレビの音もだめ。
話し声もだめ。
音は全部だめだ。
あんなに好きなのに、邪魔になる。


言ってしまえば、これは読書の時もそうなのだけど。読むことより、書く時の方が音があることに対して負荷がかかる。
本は雑音溢れるカフェでも読める。
しかし書くことはだめだ。
集中できなくてイライラし始める。

これは単に好みの問題だろう、と深く考えたことはなかった。
勉強する時にBGMがあった方がいいという人もいれば、ない方がいいという人もいる。
音楽のある無しで作業が捗るかどうかということに、科学的根拠はないらしく、やはり個人差の問題だと、なにかの検証番組で言っていた。


 しかし、最近面白い記事と出会った。
ブログを始めたことをきっかけに、友人が「文章の書き方の秘訣」をまとめたおすすめのnoteをいくつか教えてくれたのである。


それは、読点の打ち方についての重要性に関するものだった。読点は文章構成においてリズム感を調節するもの。だからそれをどこに置くのかは非常に重要になるという。

それは確かに…となるのだけれど。
リズム感?

読み進めると、説明の中にグルーヴ感とか、ビートという言葉が並んでいてぽかんとしてしまう。そういう音楽的な言葉が、書くことに結びついてくるなんて想像したことがなかったものだから。

「読ませる」という行為は「お客さんを踊らせる」こととほとんど同義だと言っていい。

つまり文章においても、グルーヴ感があって、ノリがよいということが大切だと。
一文一文の長さ、組み方、句読点の配置でリズムが決まる。


 ひょっとすると。私がBGMがある環境下でかけなくなるのは、文章を書くという作業の中に、音楽性が隠れていたからなのかもしれない。
自分が作曲しようと音を確かめている時に、近くでピアノが鳴っていたり、ヒップホップがなっていたら、音が聞こえなくて参ってしまうだろう。

それと同じことかも。

 それに、音読の邪魔にもなる。
私は書いたものを必ず声に出して読み返すようにしている。そうしないと自分が納得いくようにうまくかけているかがはっきりわからない。
息が続かなかったり、つかえたりすると、何かがおかしいってことがすぐにわかる。
読みやすいか、聴き心地がいいかの確認のためにこれまで無意識に行っていたことなのだけど。
そうか、これはある意味ではリズムを確認していたのか…と納得してしまった。


音楽が好きでも、楽器をひくことも、歌うことにも縁遠い。
でも、こういう音の作り方もあるんだな、とちょっと嬉しくなった。

 コラムの中には「教授体」という言葉もでてくる。基本にして奥義と説く。
伝えることに重きを置いて、面白みを消した文章。一定の心地よいリズムで構成されている。ある程度技術があってわかりやすく伝わるが、ノリというものが弱い。

おそらく私の文体はそっちに近い。
わかりやすく伝えようとはしていても、上手い文章で魅せようとはしていない。ノリがない。なるほどとは思えても、踊りたくはならないだろう。
もっとふわ〜っとしたものを書けたらな〜と思うのだけど。これがなかなか難しい。

まだ、目標もゴールもわからないけれど、もっといろいろ書いてみて、自分だけのビートが刻めるようになりたい。
そしていつか、誰かを踊らせられたらいいな。

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