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カラマーゾフの兄弟

昔の読書記録を読み漁っていたら、カラマーゾフの兄弟が出てきました。


一巻だけ読んで二巻目に進むタイミングを逃してしまい、もう絶対にトライする気力が起きなさそうな本。
せっかくあんなに時間をかけて、苦心して読んだというのに。
その内容もすっかり忘れている。


もう一回読もうとしたら、また一巻目から始めなくちゃ、と思うと気が遠くなるので、もう読まない気がする。


でも、当時の私はよほど感動したのか、一巻しか読んでないのに、詳しく内容を書き留めていました。
おかげでどういうものかちょっとは掴める。
そして、これがなんだか自分で読んでておもしろい〜。








どんな本?


カラマーゾフの兄弟は、簡単にいうと

カラマーゾフ家の主、フョードルを殺したのはいったい誰でしょうか?


というお話。基軸はサスペンスですね。


殺された父親には、三人の息子がいる。
ドミートリイ 超キレやすい長男。
イワン    無神論者のインテリ次男。
アレクセイ  信仰心の熱い純粋な末っ子。



ドミートリイには婚約者がいるが、彼は父親の愛人を愛してる。
イワンはドミートリイの婚約者のことが好き。
一緒に住んでいる召使いのスメルジャコフは、実はフョードルの隠し子。

設定を書くだけで、複雑な人間模様と、凄まじくドロドロな三角関係が見えてくる。
しかも親子で。



そしてさらに設定をややこしてくしているのは、1人の人物につき、名前が二つずつあること。

ドミートリイ=ミーチャ
アリョーシャ=アレクセイ

みたいな感じで、もはやニックネームの域を超えて別人の名前が1人の人物に二つずつくっついていて、それがランダムに繰り出される複雑さ。
だれがだれだかわからなくなるやつ〜。

そこに加わる宗教観、世界史的背景、聖書の知識。

もう、なけなしの知識と記憶力を総動員して挑む、頭が大爆発を起こす本なのでした。

わたしにとっては…。

でもなんとか理解しようと頑張ると、大爆発した分感動もあります。





一番感動するところ

特に巻末の「反逆」と「大審問官」という章がすごく考えさせられます。
本筋から独立しているというか、イワンがどういう人物であるかを説明すると同時に、世の中に問題提起するような話です。

先に断っておくと、宗教色がかなり強いです。




無神論者であるイワンが、なぜ自分は神様のことを信じないのかの理由と、自分が思うキリストの欠陥について語っています。


日本だと、自分の信仰心とか何を神だと思うか、ということについて深く考える人ってあまりいないと思うのだけど、海外だとそうはいかない。
宗教は思想の根幹を占めているし、政治において何を支持するかとも、かなり密接な関係があるようです。


だから、イワンが無神論を掲げるのは、ただ単に興味がない、ということではなく、それなりに熟考した上での強固な理由があります。
その根幹の部分が語られるのが反逆です

とても簡単に縮めるとこんな感じ。




神様は人間同士は赦しあうことが大切で、そうすることで、僕たちが神の国に近づくことができるという。
だけど、僕はそんな国には行きたくない。

知恵をつけた大人同士の憎しみや争いについては諦めるけれど、まだ何もわからない子どもが理不尽に殺されることに関して、どうして赦すことができるだろうか。
加害者と、殺された子どもの母親が赦しあって、抱き合う世界が神の国だと言われても、絶対に同意したくない。
流された子どもの涙はどうなるんだ。
だからそんなものを推奨する神を、僕は信じない。




綺麗事をならべないでくれっていうのがイワンの考え方なのでしょうか。
そんなことが赦しあえるなんて、気持ち悪い、許せないことは許せないし、憎いものは憎い。それが人間的な感情じゃないかと訴えている。

そして、特に子どもに注目しているところも興味深いです。
海外作品は子どもと大人の境界をばっちり分けているものとか、通過儀礼を主題に置いてるものが多い気がするけれど、やっぱり宗教観から来てるのかな…




と、そこで、末っ子のアリョーシャが、それでも赦そう、と試みる人がいるじゃないですか!とイエス・キリストの存在を持ち出します。
アリョーシャはこの話の中で一番純粋でキリスト教に対しても従順です。



でも、これにもイワンは反発。
自分が書いた叙事詩を用いて、キリストの欠陥を指摘します。
これが大審問官です。

ここがちょっと複雑なのですが、イワンは自分でお話しを書いているんですけど、その中のベースに実際の聖書が用いられています。


お話の中では、はるか昔に亡くなったはずのキリストが何世紀か後に世の中に再び蘇ります。
人々が喜び、崇める一方、時の主教は彼を捕まえ、尋問を行います。



ここでキリストの過去として、聖書のマタイの福音書が引用されます。







キリストは、悪魔からの3つの質問に答え、結果的に

奇跡
神秘
権威

の3つの事柄を放棄します。

悪魔から石をパンに変えよと言われたキリストは、人はパンではなく神の言葉によって生きるべきだと答え、奇跡を放棄した
神ならば屋根から飛び降りてみよ、といわれると、神を試みるべきではないと、神秘を放棄した。
さらに、すべての力を与えるかわりに私を崇めよ、と言う言葉に、ただあなたの神に仕えよとこたえ、権威を放棄した。



もし、キリストが悪魔の誘いにのってしまったら、彼を讃える人々はこの3つに支配されてしまうから。
彼はそれらを放棄することで、かわりに人々に信仰の自由を与えた。

というのが、キリストの過去であり、実際の聖書にも書いてあることです。


しかし、大主教(イワン)はそれがかえって、人々を苦しめていると非難します。


お前は人間を買いかぶりすぎたのだと。




人は実際、パンがなければ生きてゆくことができない。パンをくれるものがいれば、心の平穏を得ることができるし、それに喜んで甘んじる。
また、人々は絶対的に崇めることができる存在を希求するようにできている。そういう存在に依存することで、安心を得ることができるのだ。人間は上に立つものの存在や、絶対的存在、権威に憧れる。


人間は自ら好んでその3つに隷属している。



お前は人間にそういったものにすがりつく事を放棄させ、なんの保証もない自由に身を置かせる事によって彼らの安らぎを奪っているのだ。


主教は3つの事柄に人間が惹かれてしまうという性質を見抜いたうえで、自分たちは奇跡、権威、神秘の3つのような存在であろうとしている。
それが正しいことだとも解きました。



これがキリストの欠陥だ、とイワンは言いたいんですね。

誰も幸せじゃない。
本質的な苦しみの解決策にはならず、よりどころがない。突き放しているだけじゃないか!という問題提起ですね。




キリストを体現するような、信仰心のあつい末っ子ちゃんにとっては、お兄ちゃんにコテンパンに言いくるめられてしまう悲壮感で幕を閉じるのが一巻です。


キリスト教が主流の世界では特に衝撃です。

兄さんは何を言ってるんだ…

どういうことだ…

と読者も一緒に考えてしまうんじゃないかと思います。




長い物語の中でも、やっぱりここの二章が感動する人が多いのだとか。


殺人事件の本質とはあんまり関係がありません。ここだけで単独で本を書いても良さそうなのに、1人の人間に落とし込んで、ミステリに仕上げるドストエフスキーさん…深い。すごい。


ちなみに私は全然キリスト教でもなんでもないんですけど。普通の一般的な日本人ですけど。
これのために、大学で義務的に買った普段全く読まない聖書を引っ張り出した記憶があります。



主教さんの言ってることは、なんとなく社会主義っぽいなと思いました。

とすると対極にあるのは資本主義?
キリスト教は資本主義的な生き方?

宗教と主義が関わるっていうのは、聞いたことあったけど、この本を読んで初めて、そういう主義と宗教の関係、世界の構造がうっすら見えたような気がしました。


よりどころとしての宗教だと思っていたけど、本当は違うのかもしれない。

けれども縋り付いて安心できる権威とは、本当に人を救ってくれるものなのか。

パンを与えられていれば、安心はできるし、生きていくことはできる。

でも、人間それでいいのでしょうか。



国内外とわず、物語の中には直接的ではなくとも、宗教的理念とか、善と悪の戦いが含まれているような…




2、3巻がどう展開しているのかわからないので、この後イワンにどういう考え方の変化があるのか、もしくは何もないのか。

赦すとは、どういうことなのか。




気になるところではあります。





気力がある時に読もうかな〜。

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