「人類はどれほど奇跡なのか」について

本記事は、同じコミュニティのメンバーである西住さんの800字書評及び追加note記事を読んだ上で書かれたものです。これらの記事を読んだ上で本記事を読んで頂けると大変嬉しいです。
以下、800字書評と追加note記事のリンクになります。

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本書『人類はどれほど奇跡なのか』では、人類がいかに奇跡であるかを「生命の誕生」、「知性の獲得」、「意識の発生」という3部に分けて語られている。序文に書かれた一節を引用すれば、
「人間の存在は、物理法則を超越した奇跡ではない。だが、今ここに知性と意識を有する人間として生きていることは、無数の偶然が重なり合った結果として実現された、奇跡的な出来事なのである。」
と書かれており、筆者は人間がこれら3つの要素を揃って持って存在しているという事が奇跡であると確信していることが伝わってくる。
この中でも、意識と知性は切り離すことが特に難しい。よって、この2つについて考察をしてみようと思う。

筆者がわざわざ一部をとって語っているように、人間を人間たらしめている要素の一つに高度な意識があることは間違いない。この意識を最も簡単な形で感じられるのは、自己と他者との区別であろう。基本的に人間は生まれてから死ぬまで自分は自分であり続け、この自分の持つ意識こそが自分であるという確信が私たちを一筆書きで生かしている。ずっと前から語られている事柄ではあるが、人間は脳の奴隷なのだ。意識がニューロンの膜電位が大きく変動する電気的興奮によってもたらされているのも、結局のところその黒幕は人間の脳みそである。
これまで人生で体験した最も楽しい出来事も、最も悲しい出来事も脳の仕業なのだ。
こう書くとかなり悲観的に聞こえるが、脳だけ取り出したものを人間と呼べるかというと全くそうではない。脳みそと肉体が結びつくことによって人間が成り立つのではないだろうか。もっとも、脳だけでなく人間の神経系の一部だけを取り出してきたものが意識足りえないのはその為であると考える。


ここまで、本書の内容である「知性と意識」について語ってきたが、タイトルである「どれほど奇跡なのか」についてはほとんど直接に言及していない。この本でも、「どれほど奇跡であるか」をさまざまな観点から考察していたが「奇跡」とは何かを述べてはいなかった。奇跡とは何かを述べねば、どれほど奇跡かを語ることは十分でないというのが私の立場である。奇跡についても先ほど同様考察する。

本書の題名にもなっている「奇跡」という言葉は、私たちの日常にありふれている。「奇跡」がありふれているということは、つまり私たちが奇跡を感じる瞬間が日常に多く存在していることに他ならない。例えば、ソシャゲのガチャを引いた時に目当てのキャラクターが少ない回数で手に入った瞬間や、大勢の参加者がいるビンゴ大会で一等賞を取った時などは「奇跡」を実感することだろう。
さて、ここまでで語ってきたのは確率が極めて低い事柄が起きたという意味の「奇跡」である。つまりは、いつか起こるかも知れないが、莫大な時間と試行回数が必要であろうという意味である。しかし、確率が非常に低いという意味では無く、もう一つ「奇跡」が登場する文脈が存在する。これは、起こるはずのない現象が起こる事を奇跡とするケースである。主に、キリスト教などの宗教で語られることが多い。具体例を挙げれば、「キリストが3日目に復活する」ことは紛れもない奇跡であるが、これは決して発生する確率が低いから奇跡と言っているのではない。
ここからも分かるように「奇跡」は用いられる文脈によってニュアンスが全く異なる。人類が奇跡であるという主張はどちらの文脈なのか非常に悩ましいところである。人類がこれまで歩んできた歴史を確率という舞台に持ち込むことは有効でない上に、これまでの歴史が起こり得ないとすることもまた言い過ぎである。
以上より、「人類がどれほど奇跡か」をテーマにするにあたって奇跡を定義せよという事である。
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本書の内容的な部分については上で書いたことで全てではあるが、少しばかり感想を書く。
今回取り組んだコミュニティのメンバーが全員「どれほど奇跡か」よりも「奇跡とは何か」に興味を示していた点は非常に面白く感じた。ある程度「メタ的」に思考することが骨身に染み付いてきているのを実感できた。

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