最愛のひと、それはお父さん(3)
わたしは、お父さんがいないことを全く気にも留めていませんでした。
少なくとも、子供のころはそうでした。それは大人になってからも同じように、気にしていませんでした。いないのは私にとって当然のことだったからです。
でも、結婚をしてみるとなぜかうまくいかないのです。
わたしは大人になって、2回結婚を経験しました。そして、2回とも離婚をしました。最初の結婚は、9年間続きましたが、ある日とつぜんに終わりを迎えました。そのときは、危篤状態だった義母を死に追いやったのがわたしだと、元夫のご親族と、元夫から責められました。
当時は驚くような出来事でしたが、こころの仕組みという、愛の不思議な世界をしるようになって、殺人犯のような誤解がどうして起きたのかがわかるようになりました。いまはもう、だれも悪くなかったし、起きるべくして起きたことだったのだと知り、その原因を癒し終わったのでほっとしています。
わたしが癒し終われば、こどもには、こころの負債を引き継がずに済みます。こころの負債は、子供たちの未来におおきな影響がありますから、カウンセリングやヒーリングの市民権が、まだまだ浅い日本でも、はやく心の知識が広まってほしいと思っています。
だれしも幸せになりたいですし、親であれば、子供たちにはなおのこと、そう願っているでしょうから。
話を戻しますが、そんなふうにして一度目の結婚が破綻したものですから、わたしはノイローゼになりました。ただしくは、ノイローゼや鬱といわれる状態だっただろう、というだけです。
なぜなら、わたしは自分のことを誰かに打ち明けるということが、極端なほどできなかったのです。なので、病院にはいっていませんから、鬱だろうということくらいしかわからないのです。でも、睡眠も食事も、お風呂に入ることさえしていませんでしたから、やっぱり、おかしかったのだと思います。
さらにいえば、燃え尽きるほどがんばっているのに、まったく頑張っていない、もっと頑張らなきゃみんなに迷惑がかかる、ただでさえ他人より劣っているのだから、もっともっと頑張らないといけない、というような考え方をしていました。
殺人者だといわれたころの私といえば、通常の仕事にくわえて、夜中から朝までつづくアルバイトをすることで、じぶんの精神が崩壊するのを防いでいました。なにもしなければ、つらくなって涙がでてきてしまいますが、仕事をして、だれかと話をしていれば笑うことができました。
まわりの人に心配されるような出来事がおきていることを、話したくなかったのです。
話しても、だれも親身になって解決してくれるわけではないし、具体的にちからを貸してくれるわけでもない。そう思っていました。
じぶんが解決しない限り、だれも助けてくれない。
きっと当時の私はそう思っていたんでしょうねえ…振り返っても、孤独な時代でした…
このころは、ただただ、精いっぱい自分ができることを、ただひたすらに、まじめに頑張っていました。
でもいつも、人間関係は空回りをしていました。
じぶんでは一生懸命やっているのに、なぜかダメ出しをうけてしまうのです。
自分の思う、やさしさの限りをつくして、体と精神の疲れを押して頑張りぬいていた私は、ますます心の扉をしめていきました。
”だれも私のことをわかってくれない”
”こんなに頑張っているのに、どうしてうまくいかないんだろう”
まさか、小さなころのお父さんとのコミュニケーションが壊滅的だったことが理由だとは思いませんでした。
ですがわたしには、お父さんとの関係の前に、お母さんとのコミュニケーション断裂も、こなさなければいけない心の負債として、おおきく横たわっていたのです。
さらに、女性としてつらかったのは、性の混乱をも抱えていたことでした。
わたしは、真っ黒に混乱した心を抱えて、どうすることもできずにいましたが、こう回想しても、希望を感じにくい人生なのに、なにかがおかしいと疑うこともありませんでした。なんとか自分を楽しませるために、笑わせるために、”普通の人”でいるために、自分のことで精いっぱいだったのかもしれません。そうこうしているうちに、わたしはとてもちいさなことでも、喜べるようになっていました。興味のないことでも、まるで関心があるかのように楽しそうにふるまうようになりました。でも、自覚はありませんでした。ほんとうに楽しんでいるのだと、じぶんでも思い込んでいたからです。でも、楽しんでいなかったのです。愛されたくて仕方のない自分を無視して、むりやりにでも押さえつけるためには、楽しそうにふるまって、”自分は大丈夫、まだ大丈夫” そう、言い聞かせるしかなかったのかもしれません。
わたしが心理学をまなぶようになってから、師匠に言われたことのひとつに、
「あまりにも水が飲めずに乾いていたら、泥水でも飲みます」
という言葉があります。
これは、今から思うに、愛してほしかった、だけど、どうしても手に入らなかった、だから、ほんの少しでも優しくしてくれたひとに懐いた、ということだろうな…と思います。
ほんのすこし、優しい言葉をかけてくれただけだとしても、あまりにも愛されることに飢えていた私は、嬉しくて飛びついてしまった、ということです。
これは、あとから書きますが、わたしの二回目の結婚のお話に繋がることでもあります。
わたしはもう限界だったのです。
愛してほしくて、愛してほしくて。
わかってほしくて、わかってほしくて。
誰か、
「きみが生きていてくれるだけで、存在してくれているだけで幸せだよ」
そう言ってくれるひとがほしくて、限界だったのです。
お父さんに愛してほしくて
お母さんに愛してほしくて
だけれど、いろんな事情でそれは叶いませんでした。
頑張り続けて、無理矢理に笑顔をつくり続けて、限界を超えて愛に飢えているじぶんのことをだれにも打ち明けずに、いつも、自分以外の誰かの困りごとを助けながら、ひとりの時間に、じぶんを慰めるために趣味の絵をかいていました。友達はわずかながらいましたが、こころを開いていたかと尋ねてみたら、開くことができていなかったように思います。
人間はもうすでに、信用できないような気持になっていました。
同じ人間なのに、人間を信用できないなんて、もう、そんな自分のことさえ、信用できなかったのでしょうね…。だめな人間だと思っていたんですよね、みんなは平気な顔して笑っていて、元気に暮らしているけれど、わたしにはそれができない…って。
人間の言葉を話さない、植物や動物たちから感じるほのかな優しいエネルギーだけが、こころの友達でした。
つづく
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