![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/81156284/rectangle_large_type_2_e9f05960d85e0003ba4fabfb4736c4d4.png?width=1200)
灰の街
この短編は札幌で活動しているアーティスト、岡まことさんの同名の曲「灰の街」に触発されて書いたものですが、曲の内容と短編の内容は関係ありません。
岡まことさんの楽曲は「悲しみによる浄化」をテーマにした、胸に刺さるような悲しみと痛みと不思議な癒しを与えてくれます。
是非岡まことさんの世界に触れてみてください。
以下の短編には自傷行為についての描写があります。ご注意ください。
**************************************************************************
私は誰に許されたいんだろう。
私は誰に愛されたいんだろう。
繰り返し心に浮かぶ言葉を切り捨てるように、前腕の薄い皮膚にそっと剃刀の刃を滑らせる。刃でなぞった跡には、ふつふつと小さな赤い粒が滲んでくる。
こんな私でも、血は赤いんだ。
血の滲んだ前腕に唇をあて、舌を這わせる。甘やかな、しかし鉄臭い味がする。あぁ、私はまだ、生きている。
視界の端に鏡に映った女が見える。長く黒い髪を背中に垂らした、青白い顔の女。腕に舌を這わせた女は恍惚とした表情を浮かべていた。
この女は嫌い。思わず鏡に映った女に向けて舌を突き出す。すると、女も同じように舌を突き出した。とことん憎らしい。
あぁ、そうか。ぼんやりした頭で考える。これ、私だ。
でも、知っていたよ。私は私が嫌いだもの。人の形をしているだけの空っぽな何かなんて、誰にも愛されるわけないじゃない。
剃刀の刃を滑らせた時の鋭い痛みも、傷口に舌を這わせた時の高揚感も、急に萎んでしまった。
左の前腕に幾筋も残る、みみず腫れのようなひきつれに、また新しい筋が増えた。
まだうっすらと血の滲むそれを見つめたまま動けないでいる。
「どれだけの痛みで、私は許されるの」
呟いても、誰も応えてなんてくれない。私も誰も、きっと正解なんて知らない。
「最低」
そう呟くと誰かが耳元で「そうだね」と言った気がした。
懐かしい声が、そう言った気がした。
しゃがみこんだバスルームの床はひどく冷たくて、その冷たさだけが身に迫った本当のようだった。
おずおずと立ち上がり、天井の換気扇を見上げる。
「最低」
そう呟くと、また懐かしい声が「そうだね」と言った気がした。
うす青いフルニトラゼパムを数粒、生のままのウイスキーで流し込む。
頭がふわりとしてくる。何も考えたくない、考えられない。
あの時もそうだった。頭がふわりとして、何も考えられなくなった。
何があったのかなんて、覚えていない。思い出せない。
ふわりふわりと虚が漂う頭を揺らしながら、重い身体をベッドに投げ出した。
何も考えたくない、考えられない。
「最低」
そう呟いたのは気のせいかな。
もう目が開かないから、意識なんて手放してしまえ。
頭が重い。痛い。私、何していたんだっけ。
シーツを巻きつけた体を丸める。
朝だ。
シーツを巻きつけたままベッドから起き上がる。
なんとなく、窓を開けてみたくなった。
もう、日は高くのぼっているようだ。なのに何故だろう、目に映る街並みは何だか灰のような色をしている。
空は明るいはずなのに、何故こんな薄墨色をしているのだろう。
左腕を窓のそとに伸ばしてみる。広げた手の薬指にはシンプルなシルバーのリングが鈍く光っていた。
すっかり緩くなってしまったリングを落としてしまわないよう、そっと手を握る。
リングをくれた人の、懐かしい声がとても大事なことを言っていた気がする。
なんだっけ。とてもとても、大事なこと。
「さようなら」
違う。
「さようなら」
違う、違うの。
とても、大事な言葉だったのに。
窓を抜けて入ってくる風は、色もないのに薄汚れているような気がした。
まるで私みたい。
薄汚れた私が許されるのに、いったいどれだけの痛みが必要なの。
新しい剃刀の刃をつまみ損ねて、指を切った。
血の滲む指先を口に含む。
甘やかな、しかし鉄臭いにおいが鼻腔に満ちて、頭を痺れさせる。
つまみ損ねた剃刀を取り直して、みみず腫れのような筋が幾筋も這う左腕の前腕に剃刀の刃をあてる。
刃を滑らせようとして、手が止まる。
哀しげな、懐かしい声が耳元で囁いた気がした。
握りしめていた左手を解くと、薬指のリングが抜け落ちた。
バスルームの床に鈍い音が響く。
私には罰が必要なの。
だって、私は汚されてしまったのだから。
「 」
私の金切り声と、懐かしい優しい声が頭を巡る。
何故、忘れていられたんだろう。
私が許されたかったのは、あなただった。
あなたの目を、声を思い出す。
そう、逃げたのは私だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?