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何かに変換したりわかりやすくしたことではぎとられたり消えたりしてしまった大切な部分たち??!
わかりやすい=いいこと
わかりやすい
理解しやすいということは必ずしもいいことなのだろうか???
料理レシピは、わかりやすく理解しやすく誰もがつくりやすく簡単に取り組みやすくしてくれる。
これらの利点がある。
たしかに・・・わかりやすさ、簡単、しやすいは・・・
私たちの困ったことに寄り添ってくれる。
これって本当にいいことなのだろうか???
そんなこと考える必要ないじゃないって言われるけれど笑・・・・
受容と共有
これが成り立っているだからいいじゃないのという。
これでいいのだろうか???
私がかんがえたいのは・・・・・
本来の姿が
このわかりやすい・簡単・便利・しやすいということによって
本来の姿にある能力(可能性やパワーや効力や効果、その他)
それが交わる融合されていた集合体であるものを
わかりやすくしたり‥‥解釈したり・・・形にしていくことで
そこにあったはずのその集合体に必要となっていたものが知らず知らずにはぎとられて・・・
さしもかわらない最初の本来の姿である能力が宿っているそれであるかのように紹介されているいろんなことについてそれでいいのだろうかと???
思ってしまう私がいたりもする笑。
一番わかりやすいのは・・・・
簡単にする前の理論や考え方の再現性率
多分??結果を求めるがために
再現率を求めるあまりに
簡単・便利・・わかりやすさ
しやすさという再現性を優性した作り方を私たちが生み出してしまうのだろうと解釈するのだけれども。
簡単に解釈すれば・・・・
笑顔
これについて多分いろんな解釈がそこにある。
けれども最もわかりやすいのは・・・・あなたのえがおと
他の人の笑顔は似ているもののようで違うということであって・・・
あなたが笑顔の顔をするときに必要なことをもし理論的に書いたとき・・・
相手に伝わりやすい様にしたとき・・・・
たぶん・・・あなたの笑顔の本来にあるなにかは剥がされて・・・
理論化されていく。
たぶん、あなたのその笑顔と同じように再現することは難しいのだけれども・・・わかりやすくされたことで似たような笑顔には近づくことはできる。
これが・・お互いに何も被害ていなことをあたえないことであればよいのだけれども・・・
これが対人関係やもしくは組織論やら・・・身体を使った運動論やら
料理だったら包丁の使い方理論やら
演奏家などもそうかもしれないけれども・・・・
例えば幸せってことについても
努力をしないで得られる幸せだけが幸せだと定義されてしまったら・・・
幸せって無限にあるはずで・・・人によってもかかわっている人たちによっても違ったりすると思う。
けれども一つの定義が確立してしまうと・・・
この定義こそが
わかりやすさや便利やしやすさということが与えていることもあまりかわらないとかんがえているのだけれども・・・・
簡略化や簡素化はそれがもしかしたら私たちに寄り添って助けてくれるものとしても本当にすてきなんだけれどもその簡略化が本当に私たちをたすけてくれているのか??本当によいものなのかということもあたらめてかんがえなおしてみたいということを私は言いたい。
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