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他者が私に満足を与えてくるから??!計算の対価


関係から始まる(ケネス・J・ガーゲン)
計算の対価(P42)(文章の短くまとめるために割愛及び簡略化しています。)

自己を第一に考えることで、関係性の重要性は低くなる。
私たちはなぜ?
他者と一緒にいようとするのだろうか。答えは明快である。
他者が私に満足を与えてくれるから。


関係それに自体に固有の価値はない。
大切なのは、個人の幸福であり、他者の価値は、相手が自分にとって満足を会えた得てくれるか否かによって決まる。


「私にとってのあなたの意味」は
「あなたが私にどれほどの益をもたらすか、逆にどれほど損害を与えるか」の言って決まる。

・彼と知り合いになっておくべきだ。あなたのキャリアに役立つだろう。
・彼は私のニーズを満たさない
・もう君は必要ない
・彼と一緒なら、君は出世できるだろう。

このような計算的な態度を道具的と批判家もいる。
実施、他者は私の目的を達成するための道具でしかない。

私たちはここでも社会科学がこうした態度を自然なものにするような
「真実」を提供していることに気がつく。

もっともわかりやすいのは経済学理論である。
近代経済学の祖アダム・スミスは
人間の行為は本質的に利己心にもとづくものであると考えた。

利益を最大化し、損失を最小化するのは、人間の本性である。

現代の社会経済学の重鎮によれば、
ビールを買うことから友人を選ぶことまで、
人間のあらゆる行動の中心には、自身の欲求を満足させるための計算がある。

多くの心理学者が、この「経済学的真実」をおうむ返しに繰り返してきた。

B・F・スキナーの行動理論はもっとも有名である。

鳩であろうと政治家であろうと、有機体は強化によって、おおざっぱにいえば、環境から与えられる苦痛と満足の量によって支配される。

スキナーによれば、
私たちは報酬を最大化し、罰を最小化するようにできてる。
対人関係も、
他者から最小のコストで最大の満足を得ることに尽きると心理学者は考えるのである。

この考えによれば、
人間の愛にとって重要なのは、利益を得ることである。
私たちは、相手が最小のコストで最大の満足をあたえてくれるとき、
その人を愛する。
こうした見方をうけいれるならば、
あらゆる関係は商品化されうるということになるだろう。

経済的な計算がはびこる世界では、他者を予測し制御することが美徳となる。心理学者は人が自分にお乞うrことをコントロールできていると感じることのメリットを示そうとしてきた。
パーソナリティ検査は、
人が、自分は館居いうの人質などではなく、
自分で自分のことをコントロールできていると感じる程度を測るものである
そしてほぼ例外なく、
コントロールできていると感じる人の方が幸せであること、
つまりより楽観的で、遂行能力が高く、
リーダーの素質があり、
行動的であるということが研究によって示されている。

こうした研究は
犬や人間を自分ではコントロールできない状況下に置く多く研究を連想させる。
人間も犬も、自分の行動の結果をコントロールできなくなると、
次第に不活発になり、抑うつ的になることもある。
学習性無力感の第一人者であるマーティン・セリグマンは、


人間の抑うつの主要な原因は、自分の世界をコントロールできていないという感覚であると述べている。

ここで
現代の人々は自分がコントロールできていると感じるときに情動的な利益を得ると仮定してみよう。
問題は、そうした知見がおしえているのは、
人間の本性ではなく
文化のありようなのではないかということである。
つまり、各自が周囲の世界をコントロールしているという確信をもとうと躍起になっている一つの文化を描き出しているのである。

そこでは、私たちは皆、互いに相手をコントロールし、予測し、操作したいと思っている。
上記の一連の研究は、まさにこうした方向性を維持するような信念を支えている。
だが、境界画定的存在(境界によって区切られた個別的な存在)を世界の中心に位置づける考え方をやめてたらどうなるだろうか。
コントロールを求める声は、収まっていくのではないだろうか。

「私があなたを/あなたがわたしを操作する」ことによってではなく、
協同的結びつきによって社会秩序を生成することは可能だろうか。
他者との関係、環境との関係というゆりかごから得られるものは、
もっとおおきいかもしれない。
(P44)

続く

上記の文章に触れて…私が思ったり感じたりしたことは、
上記の理論がすべての物語っているということではなく・・・
あくまでも一ひとつの理論から私たちの思考を読みほどいたら・・・
もしくは・・・・わたしたちはどこかで理論という文化の影響を受けていて・・・それを軸にして普通に何も考えずに疑うこともなく・・・それがまるで人間の本性であるかのようにして考えている節がないだろうか等と問いをあたえられたこと、上記の理論は、もしかしたら特に卓越したビジネスマンやウーマンであれ場よりわかりやすい理論で理解しやすい考え方です。

もし上記の理論を活用して人や人と人との関係を観た時・・・
最近のアニメ(逃げ上手の若君)にあったように神秘的なものが化学によって解明された習慣にそれらは本来の姿をなくし・・・化学という枠組みからしかそれらをとらえることを難しくしてしまっている行為であるということをさらっと語られていました。

上記の発想は・・・・私たちの側面に誰もであるものです。私たちの現在の経済環境や文化や社会環境が私たちを物語っています。
著者ケネス・J・ガーゲンは冒頭で自身が慣れ親しんできた文化では、
個人の考えや感情が行動を引き起こすと考えられ、個人の自主性が重んじられてる。また、他者との関係は非常に道具的なものであり、日本の文化はそれとはまったく異なり、個人よりも人間関係が重視されているように思われ、日常的に織りなされる人間関係での礼儀作法、集団での取り組みが重視されていること、人間関係のりようを表す言葉の繊細な使い分けなど
どれも私には卓越したものに感じられたと書いています。そして彼のこの本での提案は、個人から集団がではなく集団がありそこに個人が生れたという発想を提案しています。つまり・・・個人があって集団がうまれたのではなく、そもそも私たちは社会は全ての人たちが集団でつながり集団でそれぞれ国は違えども…地球規模で考えた時・・・すべての人間が集団で地球といつ宇宙の惑星の一つの星に共に同じ時代にうまれた人間としてそこから個人が発生するのだという発想です。


ひとについてわかりやすくとらえようとしたとき・・・
数学の数式のように考えやすくするためにあえて記号を作って・・・
それを計算する理論的公式を生み出したのはもしかしたら・・・上記の発想かもしれません。
上記はあくまでも上記の理論上から紐をほどくとそのように考えから私たちは人と接しているという解釈です。
でも本当にもの解釈だけが私たちの持っている本能なのでしょうか???

もし上記の理論的な側面を私たちの本能が得ているとしたら・・・
それは自然にえたものなのでしょうかそれとも偶発的・・・それとも
私たちの文化的歴史がそのように私たちの本能の一部分として生成して成長させてきたというのでしょうか。

ここでは考える場を与えたいと考えていますので・・・・
どれが正しいのかというよりも・・・考えることで内的対話を広めていただければ嬉しく思います。


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