"神様"とドキドキ文芸部!、NEEDY GIRL OVERDOSE、ミッドナイト・ゴスペル、スローターハウス5
突然だがこの世界には何びとにも侵すことのできない崇高な精神があって、それは神様に似ているがまったく別物として存在している。いや、人間の社会的機能としての観点から見ればその二つは同様のもの、月と太陽が地上から見れば同じ大きさに見えるように、人間を明るく照らし出す存在である。
そもそも神様ってなんだ?神という概念に馴染みのない人はここで躓いてしまう。聖書的な"つまずき"ではなく、単純に知らないという意味で躓いてしまうのだ。わからない人には本当にわからない。納豆が嫌いな人が納豆の美味しさをわからないくらいにはわからない。
それでもドストエフスキーは読める。ドストエフスキーがすごいのはここにある。神様のことはわからなくても、神様がいなければならない理由はわかる。
神様という概念が頭によく馴染まない人は、ドストエフスキーの著作を読み、"神様"という語の前後のテクストから意味を推測し、頭に定着させる。それなら"神様"を別の何かに読み替えても通用してしまうんじゃないか?「暑い日はそうめんが食べたくなる」と「暑い日は冷やし中華が食べたくなる」の「そうめん」と「冷やし中華」は前後のテクストの一致によって交換可能なのだ。
思うに、「ドキドキ文芸部!」のモニカが神様である。このゲームが詩をテーマにしていたこと、つまりあまりにも文学的なゲームであったことを見落としてはならない。
彼女が神様である理由はモニカのメタ発言にある。DLCの追加ストーリーにも。それはなぜか。ゲームにおいてメタ的な存在であるから神である、とかそんな短絡的な話ではなく、メタ発言には全世界を見渡す視野と知識、そして限りないやさしさを言外に含んでいるからだ。彼女は想像上のキャラクター(偶像、アイドルとも言い換えることができる)であると同時に現実に存在する一人の「人間」だ。彼女の言葉は全世界に届き、そしてあまりにも重い。
「NEEDY GIRL OVERDOSE」を思い出そう。超てんちゃんが配信の中で、ガンダムシリーズの監督である富野由悠季について(直接それとは言わないが)話すくだりがある。あまりにも鬱なので問題になった作品、Vガンダムを製作しているとき彼がひどい鬱状態にあったことを超てんちゃんが配信で話しているが、ここで感じられるのはモニカの場合と同じ限りないやさしさである。両方とも、インターネットやSNSなしでは生きていかれない現代人の苦悩とか憂鬱をしっかりと表現している作品という点で共通している。(にゃるら氏とDan Salvato氏については今後も要注目である)
今度はまた別の神様のお話。60年代のサイケデリック・ブームや80年代のニューエイジ・ブームのオマージュで、哲学的な話が多く現代的とは言いづらいアニメ、「ミッドナイト・ゴスペル」である。ここにおいても限りないやさしさの視点が現れてくる。争いはいつの時代でも起きるしそれは永遠に繰り返されるかもしれないこと、家は破壊され人は必ず死ぬこと、そういったことを現実として受け入れることは人に、世界にやさしさの視点をもたらす。最後のダンカンと母親の対話は実話であり、その発言はあまりにも重い。
同じ哲学的な思想を表現している作品は数多くあるけれど、ここでは「スローターハウス5」を挙げておきたい。「そういうものだ」という言葉を末尾につけるのが印象的なカート・ヴォネガット・ジュニアの1969年のSF小説。主人公は特殊な能力で過去、現在、未来を何度も行き来しており、人生で起きるあらゆることをすでに体験している。自分がいつ、どこで、どんな風に死ぬかということもわかっている。主人公はあるときトラルファマドール星人に連れ去られ、遠い星の地でこんな話をする。
こういったことを最初からすべて了解しておくこと、それが大事なのだ。神様という語をあまり厳密に定義したくはないのだが、それは信じることで全世界の人間が救われるようなもの、誰も侵してはならない崇高な領域、その存在によってかろうじて「人生とはそういうものだ」と折り合いつけて生きていけるようなものではないだろうか。
それでもやっぱり神様がわからない?神様とはたぶんこういうものだ、
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?