見出し画像

恍惚の世界のはじまり



祖母の作った味噌汁に
祖母の髪の毛と思われるそれが
2、3本入っていたことがあった。


ほどなくして
祖母はわたしのことを
「お嬢さん」と呼ぶようになった。


そう呼ぶ祖母の瞳は
ガラス玉のようだった。
空虚なガラス玉のような瞳が
こちらを見て言う。



「お嬢さん、今日は天気がいいですね」


ほどなくして
祖母は髪の毛を結えなくなった。
白髪まじりのその束が
肩にだらんと垂れていた。


ほどなくして
祖母は料理ができなくなった。



ほどなくして
祖母は祖母の世界で生きるようになった。


ほどなくして
祖母は歩けなくなった。


ほどなくして
祖母は肺を患い
入院し
その後は施設へ入所した。


忘れてしまうことが
ひとつ
またひとつと
増えていき。


できなくなったことが
ひとつ
またひとつと
増えていった。


けれどいま
目の前にいる祖母は
恍惚とした表情を浮かべている。



涙を滲ませ
頬を薄桃色に染らせて
遠くを見ながら微笑んでいる。


口もとが微かに動く。



視線が交わることはないけれど
少女のような歌声が
わたしを掴んで離さなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?