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意味のない言葉の効力。

先日、久しぶりに役所へ行ってきた。
役所へ行くと、いつも誰かしら窓口で怒っている気がする。
役所の仕事も気苦労が多かろう。そんなありふれたことを思う。

手続きをしてもらっている間、窓口の前の椅子に腰掛けて待っていると、どこからともなく怒号が聞こえてきた。

「余計なこと聞くな!うるさいな。子どもじゃないんだから、そんなこと聞かなくてもわかるだろ!いいかげんにしなさいよ」

声の主は、80歳くらいの男性だった。男性は背広を着ていた。隣には同じ歳くらいの女性の姿がある。男性が大きい声を出すたびに、その女性は宥めようとするが、まったく聞き入れてもらえない。

(もう、あなたがいいかげんにしなさいよ)私は心の中で呟く。たしかに、役所の対応には辟易することだってあるが、うるさいなんてのは、初対面の相手に向かって言う言葉ではないでしょ。そう言いたくもなる。怒鳴り声や誰かが罵られているのを聞いているだけで、嫌な気持ちになるものだ。

しかしながら、常軌を逸した怒りかた、もしかしたら認知症を患っているのかもしれない。
生きてきた時代背景が、その人をその人たらしめているのかもしれない。
今まで誰も、その男性に意見する人がいなかったのかもしれない。

理由はわからない。

怒っている人は大抵、悲しかったり、寂しかったりしている気がする。
わかってほしい気持ちが、怒りに変貌しているのだと、思う。
何かしらの理由があるのだろう。



ただ、怒りで相手を支配しようとする人も、一定数いる。その行為自体は、とても虚しいことだ。そんな手段でしか振り向いてもらえないのだから。怒りは、自分や大切な人を守るために使いたい。

この人の場合、どんな背景を抱えているのだろうか。

そんなことを頭のなかでぶつぶつ考える。
ぶつぶつぶつぶつ考える。
勝手なことを、思いつくままに。
頭の中のぶつぶつと浮き立つものは、発露されることなく、蒸発して姿を消してしまう。

ひとりで頭の中を何周も駆け回っているうちに、男性と女性も目の前からいなくなっていた。



帰宅すると、夫がYouTubeを観ていた。

「こんにちわにのこ♩」

「わーにわに♩わーにわに♩」

意味不明な言葉が、リズムに乗せられ聞こえてくる。

「これ?鰐の歌?どういう意味?」

「いや、意味なんてないよ」夫は言う。

意味なんてない。
人を攻撃する言葉を(意図的だったかはわからないが)聞いたあとに聞く、意味のない言葉。
ああ、そうか。
意味がない気楽さ。
意味がないことは、気張らなくていい。
背広を着なくていい。
意味のない言葉ほど、寛容な言葉はないのかもしれない。

私は次第に、晴れ晴れとした心持ちになってゆく。
そして、ふと思う。
意味のない言葉に救われた時点で、その言葉は意味をもっていることになる。

じゃあ、意味のない言葉なんて、この世に存在しないのか。

いや、言葉に意味を持たせるから、喜んだり傷ついたりする。だから意味を持たない言葉、解釈の必要性がない言葉は、喜んだり傷ついたりしない。
感情が揺れ動かない。
そこが、いいのかもしれない。

そんなことを、また、ぶつぶつぶつぶつ考える。
背後からは、また、意味不明な言葉が聞こえてくる。

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