面倒くさい人としての自分

たぶん、俺は面倒くさい人間だと、自分で思う。
分かり合える人は少ない。
面と向かって自分の考えを誰かに話したり押し付けたりすることはしないが自分の考え方を聞かれたときに素直に答えるとだいたい良い顔はされない。
逆の場合で自分がその人の意見や考え方に興味を持った場合、どんな内容であっても基本的に肯定するし「そういう考え方もあるのだな」と参考にさせてもらう場合がほどんどで、誰かの考え方を否定したり拒絶することは殆どない。(親友と喧嘩するときは別ね)
でも、今まで生きてきた中で相手の考えを否定したり、拒絶したりする人が如何に多かったことか。

特に完全菜食生活をしていたときは
「お肉食べたほうがいいよ」
「お肉美味しいじゃん」
「体に毒だよ」
などなど。余計なお節介にも程がある意見をたくさん頂戴した。
(俺からすれば人の考え方に首を突っ込んでくる人たちのほうがよほど面倒くさいのだが)
そんなことを言っている俺でも今日の今日まで

「あぁ、俺はきっと面倒くさい人間なんだな」

と思って生きてきた。
でも今日、答えが出た。

俺は面倒くさくなんかない、と。
なぜ人は思慮深い人間を面倒臭がるのか、やっとわかった。
それは

「自分で考えるのが面倒だから」

だ。
そして自分で考えていない人間は考えている人間を目の前にすると自分が考えていないのがバレてしまうから。だから敬遠される。

俺はとにかく自分で考える。
自分が抱いた疑問に従って考える。
自分が食べるものにしたってそう。
自分の生き方や、感じ方、どう思うか、自分なりの人生観。
自分で考えて、自分で答えを見出して、自分の意志で行動する。

俺も昔はそうだったが

「人にどう見られるか」

ばかりを気にしていた。
他人目線ばかりを気にして、自分の目線を失っていた。
だから変えた。

「自分はどう見るのか」

そう考えるようにした。
人がどう思うかなんて、俺にはわからない。
でも自分が今見ているものを自分がどう思うのかは自分で決められる。

俺は浮浪者を見てもおかしい人だとは思わない。
俺だってそうなる可能性はあるのだから。
裸足で歩いている人をみても変だなんて思わない。
むしろ健康的で良いな、と思う。
いちいち誰かを変だとか、おかしいだとか、そんな風に他人様のすることに干渉しない。
「変な風に思われるんじゃないか?」
という思考もかつてはあった。
でも、もし自分のことを変だと思う人が居たなら、そう思いたければ思わせておけばいいんだ。
人を理解する力がない人間ほど、他人を変だとかおかしいだとか言いたがるのだからそんなの言わせておけばいい。
神経がまともならひと目なんて気にしなくても人はまともな行動が取れる。
ひと目がないと社会性が保てないようならその人の社会性はそもそも無いに等しい。

話がそれてしまった。
面倒くさがられる事は悪いことじゃない。
そう思われるだけで思慮が浅い人間は自分の元から去っていく。
自分で調べ、自分で考え、自分の考えや、自分の思想をまとめて、自分の意志や、自分の信念に従って生きていきたい人たちは大勢でウェーイしたいような人や、自分の意志がなく社会に流されて生きていく人たちの渦の中では生きていけないんだ。
複雑な思考をするより、取ってパッとつけられるような考えに従って生きてたい人たちとは相容れないんだ。

そして複雑で、思考過程が長い面倒くさい考え方を受け入れられない人たちはインスタントな思考や思想で生きていくほかがなく、そういう人たちは往々にして人に流されて生きていくことになる。
それが悪いとは言わない。生き方は人それぞれ、自分の意志で生きることも流されて生きていくこともその人の自由だから。

でもこれだけは言いたい。
大多数を占める単純思考が正しいとする考え方を持って人の思想や思考に立ち入って来る人たちこそ一番厄介で面倒くさい人たちだ。

本来、自分の考え方というモノには必ずプロセスがある。
モノとしたのは「物質的な物と同じだ」というニュアンスを感じてほしいからだ。どんなもの、例えばスマホでもPCでもなんでもそう。
存在するものにはすべて過程=プロセスがある。
自分の考えがある、とするならばその考えにも当然のようにプロセスが存在する。だから誰かに聞かれたときその過程をしっかりと伝えられる。
自分で作ったカレーのレシピを答えられない人なんていないだろう?
そういうことだ。
つまり。自分の考えと言っているその考えのプロセスや過程が無いのならそれは自分の考えではないのだ。もし誰かの意見を良いと思い、それを採用したならばそれを採用した理由や経緯があるはずだ。
それすら無く、誰かに、メディアや、親、兄弟、学校、会社に強いられただけの考え方や思想を自分の思想と思い込んでいる人たちはみなすべて

「洗脳」

されているだけなんだ。
それに気が付かず、人様から植え付けられただけの考えを「自分の考え」だと本気で思い込んでいる人と、自分で調べ、自分の脳力を使って、自分の答えとして、自分の考えで生きている人とでは、考え方や世界の捉え方が全然違う。大抵の人はなるべく自分の考えや意見を殺す。(日本に限って?)
自分の意見を言わず、従うほうがいい、そういう風潮がある。
だから流される。いともかんたんに流される。
特に女性は流され易い。気をつけたほうが良い。
封建社会だった日本の悪しき名残かもしれないが、日本だと女性は意見せず流されて生きたほうが良いような風潮が未だにある。
そのせいで女性たちの「考えることに対する考え」が日本からはまるで失われてしまっている。女性が本来持っている思考能力は本当に素晴らしい。
単純愚直な男にはない、複雑な思考ができる。
思慮も深く、愛情もある。利他の精神も強い。
そういう女性性を現代社会がしっかりと取り込めていないのは、言うまでもなく女性が考えた意見や思想を言うことが未だにこの日本では敬遠されているからだ。だから資本主義は搾取ばかりが先行する。まるで愛がない。

物事をシンプルにすることは素晴らしい。
だが「シンプルにする」のが良いのはその過程に複雑さあってのことであって最初から単純な物だけを選択するのとでは話が違う。
でもそうやって「単純なひと」が大量生産されていくんだ。
複雑なのは嫌い、面倒なのは嫌い、カンタンが良い、単純なのがいい、説明書読まない、新しいことは苦手・・・そうやって人はボケていくんだ。
年間720万人にも上る痴呆患者が生まれる過程には脳の酸化ストレスやアミロイドβの蓄積、アルコールによる脳細胞の劣化などがあることは言うまでもない。だが、それと同時に過剰なまでの単純思考化がそれを後押ししていると俺は推測している。
頭を使わないんじゃなく、食べてるものがロクでもないから脳細胞が減少していって「考えられない脳」になっていってるんだ。
(特にキャノーラ油とか過酸化脂質なんか危険だよね)
良質なタンパク質を摂らなければ筋肉が発達しないように脳も良質な脂質を摂らなければ発達しない。そして筋肉同様、脳も使わなければ衰えていく。

アルツハイマーとは言わなくても、自分で考える力を失っている人からすればこういう話ですら面倒だと思うんだろう。
でもそれもまた人生。
それが良いか、悪いか、自分が望んだ生き方かどうかは当人が決めることであって俺は何も言わない。
ただ、面倒くさいと言われる人間を代表して言わせて貰えば

社会や時代に流されることしか出来ない人間たちが

ゾンビを増やすかの如く

思慮浅い考えがマジョリティだと

押し付けてくる事こそが

一番面倒臭い

創価学会の勧誘や

保険会社の営業並に面倒くさい

そして一番面倒なのがそういう人間ほど寂しがりやだから人に干渉してくるっていうことね。平気で人の思慮内に立ち入ってくる。
ネットでもよく見るでしょ?あれよ。
幸いにして俺は今、そういう人たちとは無縁だけど、もしあなたの周りにそういう人がいたら、悪いことは言わないから距離をおいたほうがいいよ。
もちろん、俺みたいな人間から距離をおいてもいいけどね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?