バカの壁を超える方法

バカの壁。
養老孟司教授の本で知っている方も多いと思う。
YouTubeでたまたま養老先生をお見かけして久々に思い出した。
でもこのタイトルが俺の脳にひらめきの刺激をくれた。

「バカの壁」

知人にやたらと人を小馬鹿にする人がいる。
知性の違いは人類において生じるものではあるし、憐れむにしてもそこまで馬鹿にするものではない、と俺は思っている。
(中にはしょうもないバカも存在するのは確かだが)

確かに彼は頭が良い。
博識だし、人よりも知恵を出すのが早い。
でもやたらと人を馬鹿にする。

でも自分にもそういう時期があったな、とふと思い出した。
人をバカにして、他人を蔑んで、自分は頭がいいんだと思っている時期が確かにあった。あった、としているのは今はそうではないからだ。

「無知の知とバカの壁」

おれが人を馬鹿にするのをやめたのは正直、つい最近の話だ。
コロナなんていうあからさまな嘘にカンタンに騙される人たちを垣間見て
「この人達はなんて馬鹿なんだ・・・」
とこの一年ずっと思っていた。

「少し調べればわかるじゃないか」
「なぜこの人達は自分で考えないのか」
「なぜ誰も逆説や否定的な仮説を立てて一考することもしないのか」
「この人達はテレビしか見ていないのか」

正直、理解が出来なかった。
だから彼らを馬鹿にしていた。

でも1年が経つ頃には真に理解した。

彼らが学校教育において強く、強く洗脳されてきたこと。
従う以外、疑ったり疑問に思えば罰せられてきたこと。
生きる知恵を与えられず、社会に依存するように仕向けられてきたこと。
群れの中で生きていくために異論を唱えられないこと。

このコトを理解してからは考えが変わった。
政府を安直に信じてしまう人たち、コロナが本当に存在していると信じてしまう人たち、社会に従うしか生きるすべが無い人達、疑うことが出来なくなってしまった人たちを馬鹿にするのを止めた。

彼らもまた被害者だ。
社会的洗脳を強く受けた結果、自分で物事を疑い、自分の頭で考え、自分で自分の答えを出す、という人間なら本来しごく当たり前の行いをさせてもらえず、ただただ家庭、村、学校、会社、社会に属従させられてきたのだ。

俺はたまたま自我が強かった。
だから理屈なくルールを押し付けてくる大人たちに対して子どもが持てる最強の武器である

「なんで?」

を駆使してそういう大人たちをやっつけてきた。
親、教師、上司。ほとんどの大人たちが子供や従属者たちに対して強いていることの理屈をまるで持ち合わせていなかった。

だから俺は彼らを「バカ」扱いしていた。
でもその「バカという解釈の壁」を34歳になってやっと超える事ができた。

「バカの壁を超えた先に謙虚さがあった」

コロナという国家ぐるみの詐欺を目の前にして、この社会とはやっていけないな、と俺はある種の諦めをつけた。
従うしかできない人たちの中にあって、自分にしか従えない人間が生きていく術が今のところ見つかっていないからだ。
そこで自然界の中に自分の生きる場所が無いか、これまで向き合って来なかった自然界と真剣勝負で向き合うことにした。

それがきっかけで俺はバカの壁を超えることができた。

「何も通用しない」

海が好きだった俺は手始めに銛突から始めた。
どうせなら銛も自分で造ろう、と思い銛造りから始めた。

が・・・。

まるで上手く造れない。
友人の知恵を借りてなんとか作ったステンレス製の銛も伊豆大島の海で2日と持たなかった。銛先は一日で2本折れ、本体は修正できないほどに曲がり、挙げ句の果てに海で携帯を無くすという始末・・・。(後で見つかる)

伊豆大島の海を目の前にして打ちひしがれた。
荒れる海に潜ってみたものの流されて死にそうになった。
言うまでもなく何も突くことができない。

伊豆大島では大敗を喫し、悔しさと名物のくやさ、そして治すことも不可能な銛だけを持って帰ってくる事しかできなかった。

帰ってきてから作物を育て始めた。
ルッコラくらいならたしかに上手く育てられてた。
でもクレソンには虫が付き、自家製の農薬を造って蒔いたら全滅した。
そもそも土を造る時点で学ぶことが5万とある。
pH、窒素の量、栄養素となる肥料の選び方、土の種類、それらの掛け合わせ方、組み合わせ方、それらを育てる野菜によって使い分けなければならない。

銛突きはある程度上達したけど今度は息が持たないという課題に直面した。
これがなかなか解決できない。運動能力には自信はあったが、海を目の前にすると自分というものがこれほどまでに無力なのか、と実感した。

そうやってこの一年、色々なことに挑戦してわかった。

「俺はこの世界を何も理解してなかった」
「俺は無知だ」

と。

人生で初めて「無知」を自覚することが出来た。

自分は賢くなんてない。

知っていることは多少人よりも多いかも知れない。

けれど自然界を知れば知るほどに自分が如何に無知であるのかを知った。

アリストテレスの「無知」を理解しているつもりだった。
でもそれも間違っていた。

人は何かを知ろうとし続ける限り、ずっとこの「無知」と向き合わなければならない。新たな知識や経験を得続けようする限り、ずっと自分自身の無知と向き合わなければならないのだ。

「どこまで学んでもこの世界においては知らない事の方が多い」

俺はそう悟った。

「どんなに勉強しても、どんなにたくさんの本を読んだとしても、どんなに多くを経験したとしても自分ひとりの人生ではこの世界には自分が知らないことや知覚し得ないことのほうが多いのだ。」

確かに健康に関する分野においては自分は詳しい方だと思う。
しかし、それはあくまでも「健康」というジャンルにおいてだ。
他の分野においてはまるで素人同然、もしくはそれ以下だ。
大根1本すらまともに育てられない。

そうして俺は人生で初めて自分の知性に対して「謙虚」になれた。

「バカの壁」を超えることが出来た。

アリストテレスの時代にもある分野の専門家たちがさも自分は何でも知っているかのような振る舞いで他の者たちを馬鹿にしたり、罵っていたと聞く。

先の知人もまさにこのギリシャ時代の専門家たちと同じふるまいをしていたんだと気づいた。

そしてある種、自分もそうだったのだと気づいた。

「俺は何も知らない・・・。」

自らの無知を自覚すると、自分が博識であるとかある種の専門性に富んだ知識に優れているとか、そんな事はどうでも良くなる。
突きつけられる現実はそれでも

「自分は無知である」

という実感だ。
自分は確かに一部には優れているのかもしれない。

だがリモコン一つ直せやしない。

シーツ一枚作ることもできない。

人参1本育てることもできやしない。

「自分でやる必要は無い」

確かにそうかも知れないが自分がそういったことをする知識がない事は紛れもない事実だ。そういう無知を自覚せず、自分自身がまるで万能であるかのように振る舞うことこそが

「驕り」

なのだ。
そしてその「無知」を自覚せず高慢に振る舞う人間こそが「馬鹿」であり、その無知を自覚して現実と向き合える人間だけが「賢者」になれるのだ。

どんなに学んでも知らない単語が出てくる。
知らない言葉が出てくる。
知らない計算式や方程式、化学式が出てくる。

「あぁ、自分にはまだまだ知らないことがあるのだな・・・。」

それこそが「無知の知」なのだ。
人は学び続ける限りにおいては「謙虚」でいられる。
しかし、学びを止め過去の知識に胡座をかいた途端、人は「高慢」になる。
そして過去の栄光や自分がいま持っている知識を棚に上げて人を馬鹿にするようになった途端、その人自身が「バカ」になるのだ。

おれはその「バカの壁」をようやく超えることが出来た。
俺は何も知らない。
知っていることと知らない事との差は天と地の差以上にある。
自分が知っていることなんて本当にちっぽけだ。
まだまだ学びたいことが山ほどある。
だからこそ一生、学び続けたい。
「バカ」になりたくない。
そのためにも自分が無知であることを自覚し続けたい。
自分の小ささを知って、謙虚であり続けたい。

「無知の知」という経験を介して俺は変わることができた。
そして現代人が如何に驕っているのかも理解した。
そういう人間にならないように、俺はこれからも学び続けようと思う。
自然界は俺にとって最高の教科書だ。

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