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自由と決断について

好きな物に囲まれすぎて、五感全てがそれを感じとるから気分が悪い。
居心地が悪くなるほど安心する。
ここは私の居場所にしてはいけないと思う場所で安心を与えられた時、私は喉の奥がねじられたような、目の中にホッカイロが入っているような心地がします。

あなたがいれば何もいらないわ、なんて嘘だと思いたいよ。
誰かの想いが、好きが、生い立ちが詰まっているモノしかない空間にいる私は食べず嫌いの子供と同じだ。

死にたいって言ってる人は死にたいんじゃなくて、初めから存在しないものになりたかったんじゃないの。

私が頼りたいと思ってしまったその存在は、全くそれを望んでいなくて、だから私は大切な人であればあるほどその人の他人でありたいと思っています。
そして私自身が干渉も共感もしたくない赤の他人のために料理を作ることが好きです。

このまえ、「あなたは他人を愛しすぎてしまうよね」って言われた。「変な自己責任はするなよ」とも。
彼の言う自己責任は自分のための自己責任で、私の思っていた他人のための自己責任とは全くの別物だった。

他人の為より、自分の為になにかしたいと思う自分にとっては、彼の言う自己責任は容易く受け入れることが出来た。
つまり“決断”は自分にとっての最善策で、自分が望んだ世界に近づけるための覚悟を持つことだった。

私の行動起因は、
自分が楽しみたいから、ではなくて
自分が嫌だと感じる現状を変えたいから、だった。
あるいは、
相手の嬉しそうな顔が見たいから、ではなくて
相手の嫌がる顔が見たくないから、だった。
できるだけ他人とは距離を置いていたい子だった。

あなたってネガティブでしょってこの前言われた。
ネガティブだからこそ、傷ついたことを自覚しているからこそ、その後の行動を変えようと考えられますよね。
その人から、昔の自分見てるみたいって言われました。
距離を縮めてくるのも馴れ馴れしいのも嫌いなことに改めて気づきました。


幸せになることより、不幸にならないことのほうが幸せの近道だと思っています。


ある女の子の取材がテレビで流れていました。

彼女は10年前も取材を受けていました。
当時8歳だった女の子は、4月から大学生になるそうです。
今の彼女の夢は養護教諭だそうです。

両親を亡くした当時の彼女は、周りの大人に迷惑をかけないように強がっているように見えました。

今の彼女は両親のことを思い出して時々泣いてしまうらしいです。

彼女はカメラの前で弱さを人に伝えることができるほど強くなったのだと思いました。
彼女の弱さを覆うものは棘ではなく、柔らかな毛布で包み込まれているような印象を受けました。

“波”という瑞々しさも感じられないほどの、黒くてどろりとしたそれが、町を飲み込む映像は、身の回りの全てが何も変わらなかった私にとって他人事でした。家族も家も何も無くならなかったから。

10年前より自由に使えるお金と時間を手に入れた私は、10年前より自然の恐ろしさを強く感じるようになった。

全てのものが、自分で身を守ることつまり危険を防止することを、自由を手に入れた私に定義づけようとしてきます。

変な自己責任も変な当事者意識も持ちたくないから、自分にも他人にも、ずっと赤の他人でありたいです。
自分の感情の触覚を減らしたくも衰えさせたくもないけれど、全ての物事に律儀に苦しみ傷つく時間は必要ない。







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