「わたし」とはなにか? —— 対話イベント「NEW REALITIES:新たな現実」【セッション対話録vol.1】
2023年5月20日(土曜)、空間コンピューティングが社会実装された未来の生活について考える対話イベント「NEW REALITIES:新たな現実(ニュー・リアリティーズ)」が開催されました。「XR」「メタバース」「AI」「デジタルツイン」などの空間コンピューティングに深く関連するコンセプトを扱いながら、わたしたちの生活習慣や思想が未来へ向けてどう変わっていくのかを1日を通して話し合いました。
「NEW REALITIES:新たな現実」は、2019年に株式会社MESON(メザン)が発足させたXRコミュニティ「ARISE(アライズ)」が主催する4回目のイベントとして開催されました。企画協力には株式会社博報堂が設⽴した、未来創造の技術としてのクリエイティビティを研究・開発し、社会実験していく研究機関「UNIVERSITY of CREATIVITY(ユニバーシティ・オブ・クリエイティビティ)」(以下UoC)に参加いただきました。
本稿ではイベント後半に実施された4つのトークセッションの1つである「NEW IDENTITY:新しいわたし」の書き起こし内容をご紹介します。イベント当日の様子をまとめたレポート記事はこちらです。
トークセッション:「NEW IDENTITY:新しいわたし」
「わたし」とはなにか?この問いに降り立ったとき、ひとえに「わたし」と言ってもさまざまな切り口があることに気が付きます。普段は無意識に受け入れている社会通念、振る舞い(マナー)、心の有り様や機微、さらにはファッションまでもが、「わたし」を語る上では重要となってきます。「わたし」の構成要素は1つでは全く語りきれません。
昨今、物理からバーチャル世界へとわたしたちの生活領域が拡張され、二世界の生活像が注目を集めるようになりました。より多様な「わたし = アイデンティティ」が萌芽するようになりました。しかしながら、急速な世界のバーチャル置換により、どれがほんとうの「わたし」なのか迷う人が登場するなど、置き去りになってしまっている本質的な要素は数知れません。そこで改めて「わたし」の在処、そして未来の「わたし」の有り様を共に探索する時間をここに用意しました。バーチャル世界を生きる人、対して伝統に生きる人たちの意見を伺いつつ、早急に導かれる「わたし」ではなく、本質から導かれる「わたし」を探ってみましょう。
「NEW IDENTITY:新しいわたし」のセッションでは、カタリストとして下記5名の皆様にお話しいただきました。(本イベントではゲスト登壇者の方を、対話の化学反応を起こす触媒を意味する「カタリスト」と呼んでいます。)
バーチャル美少女ねむ(メタバース文化エバンジェリスト):メタバース原住民にしてメタバース文化エバンジェリスト。「バーチャルでなりたい自分になる」をテーマに2017年から美少女アイドルとして活動している自称・世界最古の個人系VTuber(バーチャルYouTuber)。著書にはメタバース解説書『メタバース進化論(技術評論社)』、小説『仮想美少女シンギュラリティ(VTuber文庫)』が挙げられる。
宝生和英(能楽師):宝生流二十世宗家。2008年、東京藝術大学音楽学部邦楽科を卒業後、同年4月に宗家を継承。宗家一子相伝「弱法師 双調之舞」「安宅 延年之舞」「朝長 懺法」を披く。伝統的な公演に重きを置く一方、異流競演や復曲なども行う。海外ではイタリア、香港を中心に文化交流事業を手がける。平成20年(2008)東京藝術大学アカンサス音楽賞受賞。平成28年(2016)文化庁東アジア文化交流使令和元年(2019)第40回松尾芸能賞新人賞受賞。2023年よりミラノ大学客員教授に就任。
目黒慎吾(テクノロジスト):博報堂DYホールディングス マーケティング・テクノロジー・センター開発1G 上席研究員/テクノロジスト。産総研 人間拡張研究センター 協力研究員。 University College London MA in Film Studiesを修了後、2007年に博報堂入社。企業ブランド広報、中国・ロシア圏でのデジタルマーケティング業務、PR業務に従事した後、2018年より現職。実空間(フィジカル空間)とサイバー空間とが融合した「サイバーフィジカル空間」における次世代サービスUXや体験デザイン、コミュニケーションの将来について研究。
三浦慎平(研究員):博報堂DYホールディングス マーケティング・テクノロジー・センター 研究員/国立研究開発法人産業技術総合研究所 人間拡張センター 外来研究員。
平沼英翔(テクノロジスト):株式会社博報堂DYホールディングス、マーケティング・テクノロジー・センター テクノロジスト2018年博報堂入社。ストラテジックプランナーとしてSVOD・ゲームアプリ・キュレーションアプリを始め獲得系案件や商品開発の案件など幅広く担当。2021年からは博報堂DYホールディングスのR&D部門に異動し、テクノロジストとしてXR/メタバース領域の業務に従事。
「NEW IDENTITY:新しいわたし」のトークセッションは、MESONと博報堂DYホールディングスが共同で発足した、生活者発想でメタバースおよび空間コンピューティング領域における研究調査・情報発信を行うラボ「Helix Lab(ヘリックス・ラボ)」とのタイアップ企画として開催されました。
Helix Lab所属の博報堂DYホールディングスメンバーとして、目黒慎吾さん、三浦慎平さん、平沼英翔さんにカタリストとして参加いただきました。
ここからはセッションの文字起こしをお楽しみください。
「わたし」と「外身」
——— これからの「わたし = アイデンティティ」を考えるとき、アバターを含めた「外身」の考えはとても重要になってきます。早速ですが外身の果たす役割に関して皆さんどう思われますか。宝生さんは能楽役者さんの観点からどう捉えていらっしゃいますか。
宝生和英さん(以下、宝生):そうですね、たとえばわたしが精神的なお話をするときには、よく和装にします。和装だと座っているだけでも腰がグッと引きつけられ、背筋が強制的に伸び、ラフな話をしない姿勢になります。そのため、話すことも自然と精神的な内容に変わってくるんですね。対して今日みたいなディスカッションの場では洋装にすることが多いです。こうした服装による変化を、外身がもたらす影響だと捉えています。
ただ、どんな服装で話をしようとも、「わたし」であることには変わりがないんです。外身を変えることで、それにあった「わたし」が現れます。どの「わたし」も当然どれも自分ですが、日常的に演じているという話ではなく、自然と外身から自分の内側が引き出される現象だと思っています。
——— なるほど。服装などの外身が多分に影響するとしたら、日頃から役に没頭するお仕事をされていると大変なこともありそうですね。
宝生:役者さんは自分自身をより消していく方向に内面が向かっていく傾向にあります。たとえば少し荒っぽい役を演じた後、普段の生活でもそのまま乱暴な態度を取ってしまうこともあります。日常的に演技をされていらっしゃる先輩方の中で、どうしても疲れてしまって心身のバランスが崩れてしまう方を何人か見てきました。だからこそ、常に自然体でありたいと考えています。外身の影響があるとは言え、自己表現において「わたし」を持ち続けることを意識していますね。
——— ねむさんはいかがでしょうか。外身をなぜ変えたいと思うのでしょうか。
バーチャル美少女ねむさん(以下、ねむ):実はわたしは「外身を変えたい」と思ったことは一度もないんです。わたしは「ねむ」になると⼝調や⾝振り、⼿振りなどの振る舞いが自然に変わってしまうんですね。そのとき出したい「わたし」にぴったりのアバターを選んでいる、と言った⽅が⾃然かもしれません。外身が変わったのはあくまで結果論であって、より本質的に大切なのは、自分の内面のどんな「わたし」を表に出すかという選択なんです。外身というのは表層的なものに過ぎないので、それを「変えたい」と考えること⾃体が不⾃然だな、と思っています。
「わたし」と「中身」
——— 対する「中身」に関してはいかがでしょうか。性格や気性も、デジタル技術の浸透によって左右されそうですが。
参加者:バーチャル空間があることによって、自分のありたい中身の可能性が広がっているのではないかということを考えていました。アバターを使いこなすことによって、物理的な自分の肉体であるとか、社会的な状況の延長上のなかに留まっていたものとは別に、全く違った「わたし」になれる機会、自由を獲得できるチャンスがあるのではないかと。
そうは言っても、ねむさんのように最大限自由とか機会を生かして、より幸せに新しい世界へ行けている人と、やっぱり現実世界の自分に縛られて、新しい可能性や自由を手に入れられていない人の2種類がいると考えています。
バーチャル要素を使いこなせる人はどんどん突き進めば良いだけの話なんですが、よりよいバーチャル空間をつくっていくという観点に立って考えると、制約やとまどいを持っている人の葛藤を解消してあげながら、どうすればみんながもっと自由や機会を最大限扱っていけるのか、というトランジションが大きな論点になると考えています。この辺は皆さんどうお考えでしょうか。
三浦慎平さん(以下、三浦):たとえば自分で作ったアバターで会社の会議に出てみたら、他の方に対して優しく接しられたり、柔らかい対応になるみたいなことが起きると思っています。アバターを使うと、相手にとっても、自分にとっても価値が得られたりします。世の中的にはまだ、アバターを使った「わたしらしく」いられる価値みたいなものが明確に訴求されておらず、先ほどのトランジションの足かせになっていると思っています。この点がクリアになっていけば、もしかしたら「じゃあこのシーンではアバターを使った方が、自分にとっては突っ込みやすいし考えやすい」みたいなことがたくさん起きるのではと感じています。
目黒慎吾さん(以下、目黒):全く違う「わたし」になれるかというと、すごいハードルが高いように聞こえてしまうんですが、ねむさんみたいに「わたしらしく」なれるという観点でアバターを使うのであれば、ハードルが低くなるという風に感じています。言葉の使い方によって概念の捉え方が変わってくるので、その辺りも1つの要素としてはありそうですね。
参加者:先ほど外身や中身を変えることによって「わたし」が変わるという話をされていましたが、それは他者に伝えるために「わたし」を変えているのか、それとも「わたし」を変わるためにそうしているのか、どちらなんだろうということも考えていました。
ねむ:「わたし」とは、単に1人の「表現者」としての存在だけがそこにあるわけじゃなくて、「わたし」の中に、その表現を受け取る「観客」としてのわたしが何人も存在する、1つの宇宙のような感覚を持っています。たとえばわたしの場合、鏡に映る⾃分のアバターの姿を⾒ているだけで、みるみるしゃべり⽅や性格が変化していくんです。そこに自分以外の人がいなかったとしても、自分の表現を感じる「わたし」自身はそこに必ず存在する。つまり「わたし」というのは、自分自身の表現の「一番はじめの観客」なんです。もちろん、そこに他者が加わると、変化の振れ幅はもっと増幅される気がします。⾃分で⾃分のことをかわいいなと思うよりも、⼈にかわいいなと⾔われた⽅が、より強い環境からのフィードバックを受けると思うので。
表現に他者は必要か
——— もし世界に自分しかいない状態だったとしたら、表現したいと思うか、それとも表現は必要ないと思うのか。この点が質問として挙がりましたが皆さんどうお考えですか。
ねむ:たぶん⼀番重要なオーディエンスである「わたし」という存在が残っている以上は、そこには絶対表現はあるんじゃないかなと思っています。⾃分1人しかそこにいなかったとしても、どういう姿であるかというのは、わたしにとってはすごく⼤事なんです。ひとりのときの立ち振る舞いも、現実世界にいる「わたし」のときと、「バーチャル美少女ねむ」のときでは全然違うんです。
目黒:昔、ヘンリー・ダーガー氏というアウトサイダーアーティストがいまして、この方の作品って後世で発見されてから初めて「すごいアーティストがいた」と語り継がれるようになりました。アーティスト本人が生きていた時代には、別に他人に見せるわけではなくて、とにかく描きたいから描いている。そして作品が時間を挟んで世に出たとき、「これってどんな作品なんだろう」と世の中が反応する。こうした流れを考えると、だれもいなくても表現する人は表現するのだなと感じます。むしろそれを外の人が「それが表現です」と指摘していますが、本人自身は表現だとは思っていない可能性すらあります。まるで呼吸するような感覚なのかもしれませんね。
参加者:商業的な表現と、個人的欲求による表現の2種類があるのかなと感じました。そして先ほどお話しになったのは個人的欲求による表現に通じるものかな、と。一方、商業的な表現というのは、相手がいないと成立しないので、ひとりになったときには成立しないんじゃないのか、という考えに自分のなかではたどり着いています。
参加者:現代のわたしたちは、いろいろな他者がいる状態で育ってきているという前提条件があるため、なりたい「わたし像」が自然と生まれているのではと思っています。対して、初めから自分1人しかいない世界で、表現がほんとうに生まれるのかどうかが気になっています。社会性があるからこそ自分1人でも表現が生まれ、なりたい「わたし」が存在する状態にはなっている。ただ、他者がいないとそれは成り立たないのかな、と思いました。
参加者:世界にひとりだとしても、もしかしたら地球上に同じ姿の人がいるかもしれないと思い始めたとき、表現が生まれる場合はあるかもしれませんね。
目黒:いま想定しているのは人に対してだと思いますが、環境に対する表現というのはどうでしょうか。たとえば偉大な滝を見たとき、あまりの偉大さに叫ばずにはいられなくなるとか。それは他者がいないけれどもやる必要があることなのか、もしくは全く無反応でいられるのかどうか、みたいな話にも繋がってくると思っています。
ねむ:表現じゃなくても、滝を⾒た感動は絶対ありますもんね。別に他の⼈がいなくても、その感動が存在しないというわけではないと思います。
平沼英翔さん:たとえば会社のオンライン会議で、普段はよそ行きの服装にするところを、ラフな装いで臨むことも多くあると思います。こんな具合に、もしかしたら他者がいないシチュエーションになると、本来行うべきようなクリエイティブな表現を行わなくなるのかもしれないとも感じました。
参加者:そうですよね。「わたし」という認識を持つためには、なおさら他者の存在は必要なのではと考えています。「わたし」とは他者との差別化、比較の上でしかないのかなと感じているので。「わたしらしさ」とか「わたしらしい表現」というのも、他者がいないと成り立たないものなんじゃないかなというのが持論です。
目黒:結局人間って、親から生まれて、まず親が保護するところからどんどん成熟していくので、やはりそこは他者の存在ありきで成長していることから、他者が前提になっているという話はたしかにあるのかもしれないですね。
——— 少し話を戻すと、環境に対する感動の表現とかは、どういう扱いになるんでしょうか。
参加者:表現の中にもいろいろな要素があって、カテゴリーを明確に決めることはできないのかな、と。ただ、抽象的な観点から言うと、なにか発したことに対して、なんらかのリアクションが返ってきて欲しいなと期待することはありそうですね。滝に対して「うわー!」と叫ぶんだけれども、滝はザーッて音で「ありがとう」って言ってる、みたいな。
参加者:滝とコミュニケーションを取っているとも言えるかもしれませんね。滝に対して自分は対話をしているつもりになっているとも解釈できるかもな、とも。
目黒:昔の人は自然の中に神の声を聴いたりとか、精霊を見たりしたわけですから、環境に対して応答をしているのかもしれないですね。
三浦:たとえば虫が作った巣を人間が見ると、造形的に美しくてそれを表現と呼ぶこともあります。虫でも表現できる、みたいな。ただ、虫は暮らすためにやっていて、巣は単純に生きるための活動の過程で生まれただけです。この点、おそらく滝に対しての感情表現も、一見すると無機質で当人が表現だと定義していなくても、他者が俯瞰して見たときに、なにかしら美しいと感じたり、感動を共感できていたら、表現として成立できているのかな、と思いました。
目黒:自分で満足することがやりたいのか、他者に認められることが自分の喜びなのか、どちらを優先するのかという話に繋がりそうですね。表現を巡る議論において、最終的には「わたし」ってどういう人なんだろうという自分の存在意義を考えるところに行き着くのではと思っています。
参加者:バーチャル空間の中でひとりになったらどうなるのか、という話に戻りますが、バーチャル空間の中にちゃんと地球が再現されて、現実世界のように滝を見られるのであれば感動があるかもしれないですけど、たとえばほんとうになにもない、単色のバーチャル空間の中にひとりだったら表現はどうなるのだろうか、と。わたしたちが住む現実世界を軸に置いて人類の歴史とか自分のことを考えていたんですが、バーチャル空間だとどうなるんだろうと改めて気になりました。
目黒:ねむさんは、バーチャル空間でひとりになることはあるんですか。
ねむ:実際、いまわたしは仮想空間にひとりですよ笑。ひとりでいるときでも、やっぱり(わたしがいる)この世界がどうなってるかってめちゃくちゃ⼤事ですね、わたしにとって。ここは書斎として使っている空間なんですが、ひとりのときも他人に見られているときも、わたしにとって居心地のいい空間なんです。
ひとりだったとしても、どういう姿でなにを感じるかってすごく⼤事だと思いますね。たとえば極端な話ですが、動物になって感じるものと、少⼥の姿で感じるものと、⽣⾝の姿で感じるものって、たぶん中⾝が同じ⾃分だったとしても⾒え⽅が全然変わってくると思います。
参加者:最後に1つお聞きしたいことがあるんですが、「中身」「外身」「表現」を全部ひっくるめて、ほんとうの「わたし」はどこにあると考えられますか。極論ですが、ねむさんが実際にお亡くなりになった後も、バーチャル空間の別の人やAIがねむさんご自身の代わりに、ねむさんのアバターを引き継いだりしてしゃべり続けてくれるとしたら、それはねむさん自身は生き続けているという感覚になるんでしょうか。もしくはやはり死んでしまっていることになるんでしょうか。
ねむ:これは完全に私⾒ですが、わたしはそうは思えないタイプなんですよね。やっぱりいまここにいる自分自身が皆さんとお話をする感覚があることで、初めてわたしが⽣きていると実感できるんです。この感覚が消えてしまったら、「⽣きている」っていう感じはしないですね。もしわたしが亡くなった後に、わたしと同じアバターなどが登場しても、それはあくまでもコピーなのかなという感覚です。⼈によってこの辺りの考えは違うかもしれないですが。
——— 「NEW IDENTITY:新しいわたし」のセッション終了のお時間となりました。ご参加いただきありがとうございました。
ダイジェストムービー
執筆・編集:福家 隆
写真:二上大志郎、柴山あかね(株式会社kusuguru)
映像:田川紘輝、大木賢(nando株式会社)
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