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「アーカイブの未来」を考える —— 対話イベント「NEW REALITIES:新たな現実」【セッション対話録vol.2】

 2023年5月20日(土曜)、空間コンピューティングが社会実装された未来の生活について考える対話イベント「NEW REALITIES:新たな現実(ニュー・リアリティーズ)」が開催されました。「XR」「メタバース」「AI」「デジタルツイン」などの空間コンピューティングに深く関連するコンセプトを扱いながら、わたしたちの生活習慣や思想が未来へ向けてどう変わっていくのかを1日を通して話し合いました。

 「NEW REALITIES:新たな現実」は、2019年に株式会社MESON(メザン)が発足させたXRコミュニティ「ARISE(アライズ)」が主催する4回目のイベントとして開催されました。企画協力には株式会社博報堂が設⽴した、未来創造の技術としてのクリエイティビティを研究・開発し、社会実験していく研究機関「UNIVERSITY of CREATIVITY(ユニバーシティ・オブ・クリエイティビティ)」(以下UoC)に参加いただきました。

 本稿ではイベント後半に実施された4つのトークセッションの1つである「NEW PRODUCTION:うつしと真実の造形哲学」の書き起こし内容をご紹介します。イベント当日の様子をまとめたレポート記事はこちらです


トークセッション「NEW PRODUCTION:うつしと真実の造形哲学」

 わたしたちの周りには、「遺されたモノ = アーカイブ」が無数に存在します。自室にある書物や冷蔵庫の中身、YouTubeやDropboxにアップロードされている画像や動画データに至るまで。全ては人類の保存欲、アーカイブ欲求の果てに見出された巧みな技術の結晶です。

 遺すという新たな「モノづくり」の習慣が加速したら、わたしたちの価値観はどう変化していくのでしょうか。もしなんでも遺せる世界になったら?もしなんでもコピペできる世界になったら?

 デジタルに「遺す」からこそ生まれる便利さに価値を見出していくのでしょうか?はたまた「遺らない」からこそ、一期一会の出逢いに感動し、深い意義を感じるのでしょうか?遺すことをどう捉え、なにか新しいモノを遺そうと思ったらどんな考えが大切になるのか。そして、遺すことに強い関係性を持つ「オリジナル」と「コピー」の価値とは。遺されたモノからわたしたちがなにを受け取り、そして次世代になにを遺していくのか。過去と未来に縦横無尽に想いを馳せて、「遺す」デザインを考えてみましょう。

 「NEW PRODUCTION:うつしと真実の造形哲学」のセッションでは、ゲスト登壇者として下記3名の皆様にお話しいただきました。(本イベントではゲスト登壇者の方を、対話の化学反応を起こす触媒を意味する「カタリスト」と呼んでいます。)

  • 沼倉正吾氏(起業家):2004年、NASKERCRAFT Inc.設立、ゲームソフト及びクラウド映像配信サービス開発に従事。2014年、VRソフトウェア開発を専門としたDVERSE Inc.(Symmetry Dimensions Inc.)を米国に設立。様々な企業とのVRに関する研究・共同開発を行う。最新テクノロジーを利用した新規事業の組織作りから企画、開発を専門としている。

  • 赤木謙太氏(デジタルファッションデザイナー):大手IT企業やベンチャーなどで数百万人ユーザーがアクセスするプロジェクト含め40以上のプロダクトは設計からデザインまで担当。2016年からALISにて全体の設計からデザイン、コミュニティ運用。2019年独立武蔵野美術大学修士課程にて「空気感と風」の研究を行う。東京大学博士後期課程にて「デジタルワールドにおける自己表現とコミュニケーションの関係」についての研究を行う傍ら株式会社HKSKを立ち上げる。Designship コアメンバー / Tokyo Startup Gateway 2019 Finalist / 始動 Next Innovator8期

  • 宮廻正明氏(画家):平山郁夫に師事。1991年第46回春の院展で外務大臣賞受賞。1996年セレネ美術館で個展「大地とともに」。1998年今井美術館で個展「刻の旋律」。1999年再興第84回院展で文部大臣賞を受賞。2002年再興第87回院展で内閣総理大臣賞を受賞。2010年ロシア国立美術館で個展。2013年ブダペスト歴史博物館(ハンガリー)で個展、リスボン東洋美術館(ポルトガル)で個展。2014年ピッティー宮殿近代美術館(イタリア)で個展。現在、東京藝術大学名誉教授、日本美術院・同人。

 ここからはセッションの文字起こしをお楽しみください。

これから求められる「余白」


写真中央:赤木謙太さん

——— アーカイブの捉え方として「余白」というキーワードが挙がりました。そこでまず、クリエイティブにおける余白とはどのような意味を持つのかを考えるところから出発しましょう。

 赤木謙太さん(以下、赤木):余白の説明をするために、まずはメディアについてお話ししようと思います。わたしがクリエイティブを行う際、必ずメディアの存在を意識しています。紙やテレビ、そして現代ではウェブもその1つとして挙げられますね。
 過去を遡れば、文字だけが書かれた紙よりも、絵が付いている方が理解しやすいとされてきたように、よりコンテンツを分かりやすく伝えるために、映像やアニメーションが重要視される流れが加速するでしょう。たとえば将来的にVRなどのテクノロジーがさらに進化すると、コンテンツの解像度が大きくアップデートされると期待されています。メディアは、時代の変遷と共に大きな変化をもたらします。
 メディアの変化を考える上で重要なのは「余白」です。余白があると、自分自身をそこに投影したくなる欲求がくすぐられて、コンテンツに参加したくなる気持ちが生まれると思っています。こうした単にコンテンツを観るだけではなく、個人の関心を引きつける要素をどう作り出すかなどの、新しいメディアスキルが重要になるでしょう。コンテンツを介して、自分のことを大切に想う気持ちを想起させたりする余白があると、全く作品の見え方が変わってきます。


写真中央:沼倉正吾さん

 沼倉正吾さん(以下、沼倉):いまの話はクリエイターにもいえそうですよね。たとえば音楽分野では、技術が発達して歌手の声にチューニングやピッチ補正が施されることが一般的になってきました。しかし、わたしたちが心惹かれる歌手は、必ずしも完璧な声やピッチを持つ人ばかりではないことがあります。逆に少し下手だったり、声に個性や特徴があったりする方が、魅力を感じさせる要素となることがあります。将来的には、完璧な歌声や美しい演奏などが容易に実現可能になるかもしれませんが、ほんとうに魅力的なものはそこではなく、人間らしさや感情が感じられるために心が動かされる、むしろ余白や個性のある部分に魅力が詰まっているのかもな、と。
つまり完璧さだけを追求するのではなく、余白や個性を大切にすることが重要だということですね。技術の進歩があっても、その裏にある人間の心や表現力が大切な要素として残り続けると考えています。そのような余白や個性を尊重し、魅力を感じられるアーティストや作品は、多くの人々に愛されそうだと思いました。

 赤木:余白という考えは、言い換えれば拡張性を持たせてあげる、という話にもなってくるのかもしれませんね。どう使うかわからないけれど余白を持たせておく。そうしたらだれかが使って面白いことになるかもしれない、みたいな可能性の追求が起きてくるのかもしれません。

 沼倉:たしかに。話が大きくなりますが、コンピューターの究極の目的って、人がなにかをつくることを助けることだと思っています。昔はなにかプログラムをするとき、当然プログラムを勉強しなきゃできなかったのが、昨年の12月にChatGPTが発表されて、いま「こういうコード」を書いてって言ったら書けるようになってきています。今後はプログラムの学習をしなくても、自分がやりたいものをつくれるようになってくるでしょう。同じようなことがプログラムだけではなくて、アートだったり建築だったり、たぶんいろいろな分野で発生して、みんながいろいろなものをつくれるようになる。昔はごく一部の人しかできなかったのに。
 各々が望むものをつくれるようになったとき、クリエイターに求められる価値ってどうなるだろうかと考えると、やっぱり「余白」や「可能性の追求」に行き着くんです。あとはクリエイター自身がなにを求めていくのかという点だけですが、より本質的にその人がなにをしたいのかとか、なにを求めているのかとか、なにを変えたいのかとか、たぶんそういう感性が重要になってくるな、と。今までは学習しないとそこに行けなかったのが、学習しなくても行けるから、もっと本質を突き詰めよう、みたいな流れになると感じています。

「隙」をみせる

写真中央:宮廻正明さん

——— 絵画の世界でも余白の考えが用いられるのでしょうか。

 宮廻正明さん(以下、宮廻):絵の世界では「隙」と表現される余白が、作品に魅力を与える要素となります。絵を完璧に描いてしまうと観る人にとっての考えの余地がなくなり、興味を持たせることが難しくなります。逆にあえて完璧ではなく、少し変化や不完全さを残すことで、観る人が自分の想像力や感性を働かせる余地が生まれます。
 「隙」は、絵画だけではなく、その他の余白の考え方にも当てはまります。水墨画のように、ちょっと書いてあるものが少ないよね、と思わせることが観る人への隙なんです。余白をうまく利用していくと、自分もそこに入り込めるのでは、と思わせられます。

——— 余白は「隙」と超訳されるわけですね。

 宮廻:現代は物質文明によって影響を受けていて、多くの人が物をつくることに焦点を置いています。しかし、重要なのは物をつくることではなく思考です。人間の考える力が求められているんです。余白は物質の観点では存在しないものです。そのため、思考のための余白が必要となってきます。

——— 「思考のための余白」の具体例はどんなことが挙げられますか。

 宮廻:たとえば京都の町に行くと、観光客がお寺へ参拝して、お賽銭を納めて幸せを願う姿が見られます。実際、願いが叶うことは現実ではありえないことです。それではこの一連の行為においてなにが大事なのか。それはこのお寺がなぜ、なんのために作られたのかという背景に向き合うことです。
多くの縁起物や仏像は博物館に収められてしまっているので、実際のお寺は魂の無いもぬけの殻の状態なんですよね。だからこそ、思考に価値を持たせなければならなかったんです。思考の根付いた京都のコミュニティーを観に行くという行為が大事であって、建築や文化を見た人が、それを見てなにを考え、なぜこういうものができているのかという余白を与えるプロセスが大事ではないのかと思うんです。
 この考えは教育を批評する上でも大事になってきます。現代社会は全て記憶競技で、多くの情報を短時間で覚えることが重要視されています。ただ、憶えることが目的になりがちで、本来の価値や理解が欠落してしまっています。短時間にたくさん憶えた人がいい大学に行くんですが、1時間かかって憶えても、10時間かかって憶えても、憶えられる価値は一緒なんです。ここで競っても仕方がない。本来大切なのは、自分たちをどう磨いていくのか、そして知恵を活かして自分自身の考えを育んでいくことです。この点を理解した上で、「思考のための余白」に眼を向けることが重要になってくると思っています。

クローン文化財に視る「遺す価値」

——— 宮廻先生が取り組まれている「クローン文化財」も、クローン = コピー制作を通じて、オリジナル作品の作者の意図や時代背景を知るきっかけを作っていますよね。これも「思考のための余白」に繋がる取り組みだな、と。

 宮廻:クローン文化財とひとえに言っても3種類あります。1つは、いかにオリジナルに近づけるかを目指してつくられる「クローン文化財」。しかし、クローン文化財だけではオリジナルには及びません。そこで2つ目に、オリジナルをいかに超えるかを目指した「スーパークローン文化財」が挙げられます。
 オリジナル(原本として)の文化財が傷んでしまっている場合、まずクローン文化財としてオリジナルの正確なコピーを作成します。そしてコピーをしたクローン文化財に修復を施して、限りなく制作当時の状態に戻したものがスーパークローン文化財です。一般的にオリジナルの文化財に手を施すして修復することはタブー視されていますが、コピーを作成することでこの点を克服しています。
 スーパークローン文化財があれば、たとえば海外への文化財流出問題の解消も目指せると考えています。海外の美術館に納められている文化財を国に持ち帰ることは、ハードルの高い交渉が伴い難しいです。しかし、スーパークローン文化財としてオリジナルを超える、価値あるコピー作品にまで昇華させれば、オリジナルの文化財が持つ価値に限りなく近いものを本国に取り戻せます。
 そして3つ目に「ハイパー文化財」があります。スーパークローン文化財に未来志向の解釈を加えたものがハイパー文化財です。たとえば法隆寺釈迦三尊像をガラスで作ったものがまさにそうです。宗教では偶像崇拝が持ち出されるように、モノが見えてはいけません。そこで見えてはいけない仏像をつくるため、透明なガラスを用いることで建前上、透明だから形が見えないでしょうという意味合いを持たせたのが、ハイパー文化財としての釈迦三尊像です。

——— 会場にお持ちいただいたものが、重要文化財の『醍醐寺の板絵』と、ゴッホの『ひまわり』というわけですね。デジタルツインならぬアナログツインといったところですね。

 宮廻:日本には元々「うつし」という文化があります。実際、日本にある国宝重要文化財はオリジナルがありません。全部中国から伝わったか、朝鮮半島から伝わって、それを日本で形にしているためです。そのため、ジャポニズムがなにから始まるかというと、まず「受容」なんです。その次に「変容」、そして「超越」というステップが挙げられます。オリジナルを越えてみせるというのがジャポニズムの真髄であり、日本独特の文化です。
 会場にあるこれはゴッホの『ひまわり』なのですが、『芦屋のひまわり』といって、戦争で焼けてしまって本物がありません。だからここにあるのが、ある意味の本物。この額縁もゴッホの『ひまわり』からデータをもらい、厚みを全部3Dで計算して作り出しています。「うつし」に生命を与えてあげると、本物を越えられることを目指してこの作品を作りました。


——— ゴッホの『ひまわり』と、先ほどの「余白」はどう関わってくるのでしょうか。

 宮廻:『ひまわり』はゴッホが売れなくて一番苦しいときに描かれているわけです。いまはゴッホの作品は何十億円もの価値になっていますが、皆さんが観るべきはそこじゃないんです。ゴッホが苦しいときに赤絵の具を買って、ここに絵の具を塗っていったその行為や精神性を感じ取って欲しいと思っています。これは「物」ではないんです。それがゴッホを知るということになるんじゃないかなと思いますし、冒頭の余白を考えることに繋がることだと考えています。

 沼倉:先ほどこれを拝見して衝撃だったのが、もっと技術が発達していったらほんとうに寸分変わらぬコピーができちゃうことです。わたしたちはコピーには意味がないと思いがちなんですけれども、じゃあこうやって現実世界にコピーが増えてきたら、実際にどんなところにわたしたちは価値を感じるのだろう、と考えるきっかけになりますよね。

都市を巡る「オリジナル」と「コピー」


——— 次にオリジナルとコピーの話に移りたいと思います。最近では、メタバース空間にさまざまな都市を建築して、わたしたちの住む物理世界に存在する都市を、バーチャル空間にコピーする動きが活発です。「バーチャル渋谷」や「バーチャル秋葉原」などがその例でしょう。たとえば都市のコピーをつくる際に重要な考えはどんなことが挙げられるのでしょうか。

 沼倉:都市の価値って、やっぱり人、仕事、お店など、いろんなモノと出会えることだと思うんですよね。自分が想像していなかった人だったり、お店だったり、場所だったりがあることの価値ってすごく大きいと感じます。こういう多様性が生み出されるという意味で、都市の価値は揺るぎないと感じています。
 ただ、都市自体もメタバースが出てきて、だんだん現実世界からじゃなくてもアクセスできるようになってきています。たとえば北海道に住んでいても、大阪の街中をうろうろして、大阪の友達と小学校ぐらいから出会って、ずっと遊ぶという体験が絶対出てくると思うんですね。そうなってくると、新しい人との出会いだったりコミュニケーション含めたいろいろなことが、場所に縛られずに発生することが当たり前になってきます。人生を変える出来事も、メタバース都市の中で登場してくると思います。そういう意味でデジタル化というのは、わたしは全然ありだと思っていて、むしろそれが出ることによって今まで存在しなかったチャンスはたくさん生まれてくるだろうと思っています。
 とはいえ、デジタルだけに目を向けてはダメだとも考えていて、単に都市をコピーすればいいのではなくて、その背景にあるものがないと魅力が出ません。やっぱりそこにいる人との出会いなど、様々な要素があるから都市は成立しています。

——— 完璧なコピーではなく、メタバース都市にも「余白」を持たせる考えが必要になりそうですね。

 沼倉:そうですね、実際には都市が完璧である必要はありません。完全な街を再現したとしても、それが都市として成り立つわけではないためです。都市が都市たる所以は、そこに人が存在し、様々な人々が交流し、お店が営まれ、予想だにしなかったことが起きるからです。このような要素が都市の魅力となります。つまり都市の余白とは、そこに人がいることだといえます。
 都市の再現でよく言われるメタバースやデジタルツインはあくまで手段であり、その本質的な価値は、人々が都市をより理解し、より良い都市環境を実現するために活用することにあると思います。

 参加者:わたしは頻繁にVRチャットに遊びに行くんですけれども、たとえば渋谷109が再現された街だけがポツンとあって、だれもいない空間を割とよく見かけます。逆にちゃんと活気づいた居酒屋ワールドみたいなものも多くあって、そういうところは毎晩遅めの時間になるとすごい賑わっています。この違いがなにかという、ワールドの完成度としては前者のほうが高かったりするんですが、後者の方がコミュニティーが盛んな点にあります。つまり、そもそも人が集まらないと、最終的には萎んでしまうんですよね。

——— 都市を活気づけるために必要な要素や、越えなくてはいけないハードルはどんなものが挙げられるのでしょうか。

 沼倉:VRチャットやメタバース、MMORPGゲームが出てきて、世界各地の人たちが一堂に集まる機会が増えました。この次にどんな壁を越えるべきかというと、あとは時間と言語なんですね。もうこの2点しかないと感じています。
 時間というのは、わたしたちが地球に住んでいる限り付きまとう時差。この壁をどうやって越えるのかというテーマになります。わたしも大きなテーマとして捉えています。もう1つの言語に関しては、解決策がちょっとずつ見えてきたなという感触があります。
 たとえば先日(2023年5月上旬)、アメリカのスタートアップがChatGPTに指示内容を吹き込むだけで音楽を作れるシークエンスソフトを出してきたんです。「これぐらいの120bpmで、こんな雰囲気で、ここにはスネアを入れて、サンバのリズムで」とか指示をすると音楽をガンガン作ってしまうんです。このサービスは英語話者向けなので、本来だったらローカライゼーションをしないと日本語ユーザーは使えないんですが、普通に日本語で使えています。これはChatGPTと連携してローカライゼーションの工程を突破できているからで、一見すると普通のことに思えますが業界的にはとんでもない話なんですね。今までだったら海外向けにデザインをどう変えるとか、言葉をどうするんだとか、検討事項が多くありましたが、これがいきなり全部なくなってしまったんです。そういう意味で言うと、言語の問題はこれからたぶん一気に解決する可能性が高いと踏んでいます。
 先ほどお話しした都市の中での出会いとかも、今までみたいに言語ごとに友達をつくるのではない世界線が訪れても不思議ではないですよね。言語を越えていきなり友達をつくれちゃう、みたいな現象がたくさん出てきそうです。これまで考えられなかった可能性の片鱗が今年くらいから見えてきたとても面白い時代で、これから10〜20年ぐらいはとても挑戦しがいのある時代になると思っています。

フィジカル = デジタル

 参加者:都市という枠組みを超えて、もっと広いお話になっていてすごく興味深いです。とはいえ、本質的にわたしたちが求めていることが多様化している中、どういった都市を設計していき、どういった社会を積み上げていくのかが気になっています。どういう街があって、どういう地方があって、どういう日本があるのか、みたいな。デジタルにまだ触れていない人と、どう共存した社会を作っていくのかをお伺いしたいです。

 沼倉:たしかに現実世界にもすごくいいものがいっぱいあるし、むしろそちらじゃないと味わえないこともいっぱいあるので、ここから先はいかにフィジカルの世界で起きていることや情報を、デジタルの世界とイコールにするのかが命題になってくると思います。
 たとえばクレジットカードはフィジカルとデジタルの両世界をイコールにしている最たる例だと思っています。地球の裏側に行ったって買い物ができる。これは現実の世界で発生する取引を、インターネットで同じように再現して行っているから成立していますよね。
 最近ではクレジットカードと同じようなことをいろんな領域で起こそうとしている機運があります。その片鱗がメタバースで言われているような、ゲーム世界の中でライブをしたり、スポーツを一緒に観戦する行為に見られます。あれらはまだおもちゃみたいな感覚ではあるんですが、クレジットカードとかとやっぱり同じで、現実の空間でもデジタルの空間でも同じものを楽しんだりとか交流したりできるようになると思うんです。なので、いかにフィジカルとデジタルをイコールにするか、変換するかみたいなことをテーマにしたスタートアップが出てくるのかなと思っています。

 赤木:いまの課題感としてフィジカルとデジタルを分断する流れがありますよね。たとえばVTuberの人と話をしていると、VTuberとしてはすごい話せてコミュニケーションできるんですが、アバターを通さずに話そうとすると途端にしゃべれなくなったりとかはあります。現実の世界で鏡を見ると、あまりのギャップに辛くなる現象に近いのかな、と。こうしたフィジカルとデジタルでバラバラになった要素を繋げていく作業が今後必要になってくるんじゃないかなと感じました。

「遺す」ものづくりとアイデンティティ幸福論


——— 最後に、デジタル技術を使って新しいモノづくりがどんどん社会実装されています。ここまでお話しいただいたクローン文化財やメタバース都市がその代表例といえます。こうした時代に必要なことや考えるべきことはなんだと思いますか。

 参加者:モノづくりのやり方や楽しみ方が変化していく中で、大人として子どもたちの教育の土壌をどう作ってあげるべきかという点は考えたいと思いました。たとえばYouTubeを子どもにずっと観させてあげちゃう親が多いのかなと思いますが、そういう育てられ方をした子どもの感性とか価値観はどうなっていってしまって、どんな幸福の形を獲得するのだろう、と。

 赤木:教育の話をもっと大きく捉えて、最近、人の目的ってなんなのかなと考えたことがちょうどありました。そのとき思ったのは、もしかするとアイデンティティーの獲得なのかな、と。自分がここにいることを証明したいとか、存在を認知されたいといったことですね。
 次にアイデンティティーを獲得できている、できていないは、なにによって左右されるかを考えたんですが、すると結構メディアの影響が大きいと感じました。何十年も前はメディアから一方通行に情報をもらって、みんなが同じものを共有していた時代がありましたよね。当時、アイデンティティーを持っている状態というのはほぼなくて、みんなお家を買って、奥さんがいて、犬を飼っていることが幸せだ、みたいなことが盲目的にあった気がします。
 そこからインターネットメディアが出てきて、いろいろな情報にすぐにアクセスできるようになり、様々な人の価値観に触れられるようになりました。この頃から、他人と違ったアイデンティティを持つ兆しが芽生え始めたと思っています。そうしてソーシャルメディアが出てきた頃には、あらゆる人が「自分」を発信するようになり、それに比例してアイデンティティを持つようになりました。
 話を戻すと、わたしが教育について考えると、アイデンティティーをどれだけ早く立ち上がらせてあげるかが重要じゃないかなと思っています。いい意味で子どもっぽくなくなっちゃう怖さがあるのでどうかとは思いますが、大人であるわたしたちは、アイデンティティーを獲得できることを手伝ってあげることが重要なのかなと、現代のメディア像の観点も含め、教育上では思ったりしています。

 参加者:自発的に学ぶ子に関する研究結果を見たことがありまして、そこに書かれていたのが周りの大人、たとえば親が楽しんで学んでいるかどうかが大事だということが取り上げられていました。周りに楽しんでいる大人、他者がいると、たとえ難しい問題と出会ったとしても、どう向き合えばいいかという姿勢が分かるらしく、そういった意味でのアイデンティティ獲得の手助けもできそうだなと思いました。

 沼倉:わたしも「なにをしたら幸せなんだろう」の答えに当たるアイデンティティをなるべく早く見つけさせてあげられることがいいなと思っていて、そういう意味ではいまのテクノロジーの発達はすごくアイデンティティ獲得を加速させていると思います。
 たとえば今までだったら、楽器を習得するのに何年、プログラムを覚えるのに何カ月とか、なにかをやるためには時間をかけないと習得できなかったと思うんですが、それが最近の生成AIの登場でその時間を一気に短縮できるようになりました。そうなると、じゃあほんとうに自分がやりたいことってなんだろうとか、ほんとうに僕はなにが楽しいんだろう、みたいな問いに早くたどり着けるようになったと思います。それはつまり、いろんなアイデンティティの方向性を試す回数が増えたことを意味します。
 うちの子どもが小学校5年のときにマインクラフトがすごく流行っていて、海外の友達とかと一緒に自分がつくったワールドで遊びたいからサーバーを立てたいと言い始めたことがありました。小学5年でサーバーって、そんなの無理だろうと思ったんですけど、PCだけ用意して、一応セットアップだけ行なったんですよ。そうしたらすごくハマっていました。
 勉強として「サーバーを立てることを学べ」といったら絶対にやらないと思うんです。わたしでもやらないと思います。対して「マイクラで友達と自分のつくった世界で遊びたい」という気持ちになると、途端にすごい真剣にやりだすから、なにに真剣になれるか問題みたいな、そこに尽きるかなと思っています。それを補助するためのテクノロジーというのがいっぱい出ているので、わたしとしてはどんどん時間が短縮できる世界になってきて、いいなぁと思ったりしています。
 ちなみに、インターネットやスマートフォンとか、新しいテクノロジーが出てくると必ず文句を言われがちです。わたしの頃はファミコンが出てきたら「こんなのやってたら頭悪くなる」とか、バンドブームが来たときは「バンドやると頭悪くなる」と言われたものです。ただ、こういう心配って実は大した問題じゃないんですよね。10万年前のローマの柱にも「最近の若者は…」って書いてあるくらい、もうずっと同じことが言われています。若い世代はそれなりに自分たちがやりたいこと自分で評価しながらやっていくから、その点は大人は放っておいてよくて、むしろなにがほんとうに正しいのかとか、なにが面白いのだろうとか、こうした本質に忠実になることで、つまらないものはどんどん勝手に廃れていくことに大人は目を向けるべきだな、と。


——— 宮廻さんはいかがお考えでしょうか。

 宮廻:時間の短縮に関して、わたしもそれを感じる経験をしたことがあります。わたしは藝大に入る前に6年浪人したんです。浪人してずっと朝から晩まで絵を描いていて、それがいまの活動に生きているんです。ひたすらこれしか行く道がないと思ったときに得たモノ、これがわたしにとっては一番の財産なんです。だから回り道をするということが、いかに大事かを学びました。
 そしてわたしは50歳のときにガンになって、末期ガンで死にそうになったこともあります。死にそうになって、数カ月の余命だと言われたときに、自分もなにか遺さなきゃいけないと思い、入院した病院で寝ないでずっと絵を描いていたんです。そうしたら、今まで3カ月ぐらいかかっていた絵が2週間ぐらいで出来上がるんですね。時間は伸び縮みするものだと、そのときに学びました。
 もう1つ別の例を挙げると、過去に一度、坂東玉三郎さんを呼んでベルリンフィルハーモニー管弦楽団と一緒に演奏会をしたことがあるんです。楽団の方々は、楽譜に速度記号を書かれていて、該当の曲を弾かせるとその通りの正確な演奏になるんです。ただ、玉三郎さんはそれではタイミングが合わなくて踊れないと仰るんですね。入るときはゆっくり入らないと、どんどんスピードが上がっていくんだと仰っていました。そこで、たとえ同じ音符記号であっても、冒頭・中盤・終盤、それぞれの場面で、感覚的に違う速度になるということを楽団の皆さんに説明したんです。そうしたらすぐに理解してくださって、次の日には玉三郎さんの踊りたいように演奏してくれるように調整してくださいました。この経験からも、時間というのはその人によって伸びたりしたり、焦っていると時間が縮んで感じるんだと思いましたね。
時間は常に同じペースではありません。時間は延ばしたり縮めたりできるので、現在を生きる子供たちはまさしく、時間を速くした価値を享受しているのではと思っています。

——— 「NEW PRODUCTION:うつしと真実の造形哲学」のセッション終了のお時間となりました。ご参加いただきありがとうございました。

ダイジェストムービー

執筆・編集:福家 隆
写真:二上大志郎、柴山あかね(株式会社kusuguru)
映像:田川紘輝、大木賢(nando株式会社)

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