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AIは誰も説明できない「正解」を生み出す —— 対話イベント「NEW REALITIES:新たな現実」【セッション対話録vol.3】

 2023年5月20日(土曜)、空間コンピューティングが社会実装された未来の生活について考える対話イベント「NEW REALITIES:新たな現実(ニュー・リアリティーズ)」が開催されました。「XR」「メタバース」「AI」「デジタルツイン」などの空間コンピューティングに深く関連するコンセプトを扱いながら、わたしたちの生活習慣や思想が未来へ向けてどう変わっていくのかを1日を通して話し合いました。

 「NEW REALITIES:新たな現実」は、2019年に株式会社MESON(メザン)が発足させたXRコミュニティ「ARISE(アライズ)」が主催する4回目のイベントとして開催されました。企画協力には株式会社博報堂が設⽴した、未来創造の技術としてのクリエイティビティを研究・開発し、社会実験していく研究機関「UNIVERSITY of CREATIVITY(ユニバーシティ・オブ・クリエイティビティ)」(以下UoC)に参加いただきました。

 本稿ではイベント後半に実施された4つのトークセッションの1つである「NEW BELIEF:機械と仮想が⽣み出すシン -信- デザイン」の書き起こし内容をご紹介します。イベント当日の様子をまとめたレポート記事はこちらです


トークセッション「NEW BELIEF:機械と仮想が⽣み出すシン -信- デザイン」

 人を信じたり、情報を信じたり、神を信じたり。わたしたちが何かを「信じる」姿勢や思想は、革新的な技術発展の歴史と共に進化を繰り返してきましたが、21世紀におけるシン -信-のカタチはどうなっていくのでしょうか。
とりわけ昨今では、生成AIという発明により、情報そのものがAIによって作られるようになりました。情報に対する「信憑」、そしてそれを流布した人に対する「信用」、はたまた人を超えると思われ始めたAIへ対する「信仰」に至るまで、わたしたちが持つ「信」のあり方が変化する兆しがあります。
「信」のカタチがデジタル社会とどう融け合うのかを真剣に考えるタイミングにきています。機械が人間のように振る舞い始めた現代、わたしたちは何を信じれば良いのか、本質が問われ始めています。あなたは現代における「信」を問われた時、どう答えますか?人と人、人と情報、人と神、さらには人とAIとの関係において、「信」がどうデザインされるのかを一緒に問い、考えを深めてみましょう。

 「NEW BELIEF:機械と仮想が⽣み出すシン -信- デザイン」のセッションでは、ゲスト登壇者として下記3名の皆様にお話しいただきました。(本イベントではゲスト登壇者の方を、対話の化学反応を起こす触媒を意味する「カタリスト」と呼んでいます。)

  • 堀江利昌(僧侶、法律家):早稲田大学法学部卒業、同大学院法務研究科修了(法務博士(専門職)。司法試験に合格し弁護士となる一方、大学在学中に好奇心から仏門に入り僧侶となる。弁護士として約3年半にわたる活動を行うが、争いごとのなかに身を置きつづけることに疑問を抱き、30歳になると同時に法律事務所を退所。同時に弁護士資格を返上する。約1年の模索を経て、僧侶として生きていくことを決意。2018年からは大本山増上寺(東京都港区)において文化財大改修等のプロジェクトに従事している。大殿本堂の屋根瓦葺き替えでは約30,000人から寄付を集めるなど、弁護士として培った思考と経験を活かして仏教や寺院の魅力を社会に届けている。

  • 関真也氏(弁護士):エンタテインメント×ファッション×テクノロジーの知財法務に力を入れている弁護士。漫画、アニメ、映画、ゲーム、音楽、キャラクタービジネスやファッション関係に加え、XR(VR/AR/MR)、メタバース、デジタルツイン/ARクラウド、YouTuber/VTuber/アバター、NFT、eSports、デジタルファッション、FashionTechなどに関する各種法律に対応。XRコンソーシアム社会的課題WG座長、ファッションビジネス学会ファッションロー研究部会長などの活動を通じ、これら業界の法制度や倫理的課題の解決に向けた研究・教育・政策提言も行う。

  • 佐々木俊尚氏(ジャーナリスト):早稲田大学政治経済学部中退。作家・ジャーナリスト。毎日新聞社などを経て2003年に独立し、テクノロジーから政治、経済、社会、ライフスタイルにいたるまで幅広く取材・執筆している。『Web3とメタバースは人間を自由にするか』、『現代病「集中できない」を知力に変える 読む力 最新スキル大全 脳が超スピード化し、しかもクリエイティブに動き出す!』、『当事者の時代』(光文社新書)、『広く弱くつながって生きる』 (幻冬舎新書)など著書多数。総務省情報通信白書編集委員。

 ここからはセッションの文字起こしをお楽しみください。

「畏怖」をめぐる宗教論

写真中央:堀江利昌さん

——— まずは信 - シン - について、信仰の観点から考えていきたいと思います。「畏怖」というキーワードを事前に用意させていただきました。畏怖はなぜ生まれるのでしょうか。また、信仰の対象となる宗教にとって畏怖は必要なのでしょうか。まずはこうした点から考えていきたいと思います。

 堀江利昌さん(以下、堀江):わたしたち、普段からいろいろ考えて生きていて、でもどうしても分からないモノと出会うときがあります。なにか分からないけれども、どういう摂理かで動いている。そんなモノと出会えたときに「あっこれなのか」とふと感じるときがあります。そんな仰ぎ見るものが信仰なのかなというふうに思います。絶対的な摂理だからこそ、自分の思考や能力ではどうにも変えられない。だからこそ畏怖が生まれると考えています。

写真中央:佐々木俊尚さん

 佐々木俊尚さん(以下、佐々木):宗教に畏怖が必要なのかどうかという点は議論になりそうですね。伝統宗教の始まりは、おおよそ紀元前500〜1000年ぐらいほどで、その時代は地球全体が非常に混乱期であったと言われています。その混乱している状態のなかで、どうやって秩序を与えるのかというところが宗教のスタートなんです。つまり、神という「畏ろしいモノ」を呼ぶことによって、わたしたちの社会に秩序が与えられ、その中で安住して生きられるというのが宗教のスタートなわけです。
 カナダの哲学者であるジョセフ・ヒース氏は、現代に生きるわたしたちはほんとうに秩序を求めているのかと問うています。近代以降、あまりにも秩序(ヒエラルキー)がしっかりし過ぎてしまい、わたしたちは抑圧を感じてしまっている。この抑圧から逃れたいとする解放を求める声、つまり秩序から逃れたいとする声があがっていると彼は指摘します。
 また、以前2度ほど対談したことのある曹洞宗の藤田一照さんに、今の時代、たとえば現世ご利益を満たしたい、出世したい、あるいは彼氏彼女が欲しいみたい欲求が、オンラインサロンや情報商材、若干如何わしいビジネスに至るまで、様々なアプローチで満たされているなかで、宗教の意義はどこにあるのか聞いてみたことがあるんです。藤田さんのお答えはとても的を射ていらっしゃっていて、たとえ全ての欲求や悩みに応えられたとしても、わたしたちのなかに最後に唯一残る「どうしてわたしはここに生きているのか、どうして死ぬんだ」という悩みを満たすものこそが宗教の役割だと語っていらっしゃいました。つまり、混乱した状態から秩序をもたらす宗教ではなくて、抑圧されている状態からわたしたちを切り離すのが宗教の役割だと語っていました。まさにヒース氏が提言した「解放としての宗教」に繋がる考えです。

AIは「信仰」の対象となるのか?

写真中央:関真也さん

——— 未来ではAIが信仰の対象となり得るのか、わたしたちに畏怖をもたらす存在へと変化していくのかも議論になりました。この点はどうお考えでしょうか。

 関真也さん(以下、関):昔ながらの信仰は、雨が降るとか、火山が噴火するとか、そういうどうにもならないことに対する畏怖と強い結びつきがあったかと思います。対して今のAIはなんらかのアウトプットを出した後、人間がそのアウトプットをどう捉えるのか考えられる余地があることから、畏怖を与えるものまでには至らないと思います。ただ、AIの判断が社会や世界の仕組みの全てを動かすみたいなところまで行ったら、それは畏怖に近いものになる気がしていますね。

 参加者:みんなが納得するようなソリューションをAIが出したら、「これはすごい!」とだれもが感じ、信仰の対象にするかもしれないな、と思います。たとえばウクライナ戦争を終結させるためのソリューションが生まれるとか、そのぐらいのインパクトがあれば、おそらく信仰は生まれ得るのではないかなと考えました。

 堀江:僧侶の観点からお伝えすると、仏教というのは悟りに対する信仰なんです。悟りは諦念(ていねん)に繋がっています。「諦」というのは諦めと書きます。たとえば「戦争」が起きたとして、戦争が起こっているという事実を、その事実のままに受け止めることが「諦」です。自分の力ではどうにもならない大きな流れに対する「諦」が、仏教的な信仰だと思います。そのため、なにか⽬標を⽴てて、そこへ辿り着くための⼿段としてAIが存在するのであれば、そのAIは信仰の対象にはならないのではないか、というのがわたしの意⾒です。

——— AIが畏怖を与えるモノでないのだとしたら、どのような存在へと変化していくと考えられますか。

 佐々木:たとえばAIがカトリック的な秩序の神になり得るかというと、現状なり得ないと思っています。AGIと言われる汎用人工知能みたいなものが登場して、ほんとうに神のような振る舞いをするようになれば別なのかもしれませんが、現状のAIはインターネットの大量の情報をフィルタリングして使っているだけなので、人間社会の裏返しでしかありません。ただ、今のAIが人智を超えるものになり得るかと言えば疑問が残りますが、違った役割を持つ可能性は秘めています。
 現状のAIが人間社会の裏返しであるということは、そこにわたしたちの暮らしや人生、社会などが投影されて、わたしたち自身のコピーが生み出されているともいえます。こうした動きから、たとえば死んだ人のコピーが生み出されることで、新たな価値が世の中にもたらされることも考えられます。米国のAIスタートアップ「Replika」は、ユーザーのデジタル情報をGoogleのAIフレームワーク「TensorFlow」に流し込んでチャットボットをつくるサービスを開発しています。ほんとうにその人とチャットしているように感じるボットが出来上がります。今後ディープフェイクの技術などを使えば、この世にいない人と音声通話できたり、動画チャットができるようになるサービス展開も考えられるでしょう。そうなるとわたしたちの死生観を変える可能性が十分にあるとも予想されます。死んでいるんだけど、生きているようにしか感じないといった現象が大量に登場するわけです。
 畏怖を与える神としてのAIではなく、死んだ人を疑似的に生き返らせることによって、死に対する恐怖心を揺らがせるような、癒やしを与える存在としてのAIになり得ると思っています。最終的には先ほどお話しした、抑圧から解放するための宗教に繋がっていくと考えています。

 堀江:宗教は「Religion」ではなくて「Spiritual」だとする意見もありますよね。先ほどの亡くなった方と話せるようになるという話も、個々人が死や生とどう向き合うのかという「Spiritual」に近いことだと思っています。つまり、AIが創り出す死生観や宗教観は、より個々人が感じ取り、解釈する宗教へと繋がっていくと考えています。

ロジックの通じない「正解」をどう信じる?

——— このままAIについての話を続けようと思いますが、AIのアウトプットとどう向き合い、どう信じていく未来がやってくると思われますか。

 佐々木:『2001年宇宙の旅』の原作者であるSF小説家アーサー・C.クラーク氏の有名な言葉に「十分に発達した科学は、魔法と区別がつかない」というものがあります。たしかに今のスマホとかを1950年代ぐらいの人が見たら、たぶん魔法にしか見えないですよね。おそらく100年後のテクノロジーをわたしたちがいま見ると魔法にしか映らないでしょう。ただ、当初は魔法にしか見えないものも、時間が経てばメカニズムが分かってきて、魔法から技術に変わります。
 ところが、いまの生成AIの基本的なアプローチになっているディープラーニングは、因果関係を証明せず、相関関係だけアウトプットすることがあります。つまりメカニズムがわからない事象が発生するんです。アウトプットは正しいのだけれども、証明はできない。人によっては「AIのブラックボックス化」や「AIの黒魔術化」と呼ぶようなことが、今後増えていくことが予想されます。
 たとえば、とあるホームセンターでお客さんにビーコンに反応するBluetooth内蔵の身分証明書のようなものを持たせて、店内をどう移動して、どんなものにいくら費やしたのかAIを通じて分析する実証実験が行われました。スタッフにも同様のものを持たせて、店舗内のどの位置にいたのかなどが計測できるようになっています。そして「どういうときに客単価が一番高くなるのか教えてください」とAIに聞いたら、レジの近くや商品棚の近くではなく、全く脈絡のない場所にスタッフを立たせたときに、一番顧客単価が高くなるという結論を出してきたそうです。実際にその場所にその後1カ月間スタッフを立たせたら、なんと顧客単価が15%向上したとのことです。これは未だにだれも理由が分からないんですよね。こうした結果が大量に出てきていて、おそらく今後ますます魔法のようなアウトプットが増えていくと思います。
 わたしたちは常に原因と結果が結びついたメカニズムによって世の中を理解しています。ところがAIは、メカニズムが存在しなくても正しい世界、つまりロジックがない世界を提案しています。今までわたしたちは「こういうロジックがあるから世の中がこう動いているんだ」といった演繹的に物事を理解してきましたが、これからの時代は「結果がこうなっているんだからおそらく原因はこうではないか」という帰納的なアプローチで世の中を理解しなければいけなくなります。これをどう社会として引き受けるのかという点は、今後の人類にとっては大いなるテーマになると思います。

 関:似たようなことを考えていました。たとえばAIに裁判をさせたらみんな納得するかどうかという話が挙げられます。裁判所の判例が論理的に書かれたデータをAIに学習させて、前例に沿ったものがアウトプットされるのだとすれば、わたしたちはある程度納得すると思います。しかし、前例に沿わない形で判例が出たら、仮に正しいとしても受け入れ難い状況に至ってしまいます。こうした法律業界における倫理観もとても変化してきそうだな、と考えています。

 堀江:要するにどこまで⼈がAIに対して理解しようと努めるのか、という話なのかなと思いました。信仰とは、世界がそういうものであると信じるような、実利的な⾏動と結び付かないような所に要点があります。自分の利害に合わせて信じるという思考とはかけ離れたところにあります。対して信憑とは、「これは信じられるから⾃分を納得させて次の⾏動をとる」といった、次の⾏動を起こすためになにかを信じる際の概念だと考えます。AIの出す答えがわたしたちにとって理解の難しいとき、こうした従来の信仰と信憑の形や過程が変わっていくかもしれない、という話なのだと考えていました。

日本はAI許容先進国

——— 先ほどのお話にあったように、AIには不気味な点もありネガティヴに思われがちですが、日本人は意外とAIについて前向きなのでしょうか。

 佐々木:総務省で情報通信白書の編集員をやっていまして、毎回のようにアメリカ、日本、ドイツ、イギリス、中国における、ITなどに関する世論調査をする機会があります。日本は一貫してITについて後ろ向きだったんです。ところが昨今登場したChatGPTのような生成AIの動きに関しては、アメリカがすごい後ろ向きである一方、日本で調査をすると7割ぐらいの人が前向きという結果が出ているんです。これまでの傾向と比較すると、とても珍しい結果です。この理由には、ある種の宗教観だったり、あるいは鉄腕アトムに見られる人格を持ったヒューマノイドロボットに対する抵抗感の無さなど、いろいろな要因が考えられます。日本はAIの分野で他国より少し先に行く可能性も出ていきていると感じますね。

 堀江:AIは過去の情報を集めて、学習させて、反映させる⼀連の流れを辿っていると思いますが、この流れは因縁、いわゆるご縁とも⾔えますよね。「あれがあったからこれが起こって、これが起こったからあれが起こる」といった因果関係の連なりがご縁です。AIが示しているのも過去から現在に至るご縁というもので、⽇本⼈はシンパシーを感じているのかもしれません。そのため、絶対的な神を想定する宗教がメジャーな国と違って、⽇本⼈はAIを受け⼊れやすかったのかもしれませんね。

——— 「日本はドラえもんで育ち、アメリカはターミネーターで育ったから」という面白いコメントもあがっています。この点、参加者の皆さんいかがでしょうか。

 参加者:比較宗教学を学んでいたので、この観点から意見をお伝えすると、たとえばバベルの塔の話が思い浮かびました。神様を超えるために高い塔を作って、みんなで協力していたらその塔が神様の怒りに触れて壊されてしまい、人間同士が意思疎通できないようにそれぞれ違う言語を与えられてしまったという話です。それから太陽に近づいていって飛んでいったイカロスが翼が燃えて落ちてしまった話も、神を超えることに対する罰意識というものが植え付けられていると感じます。対して日本神話の中では特にそういったエピソードはあまりありません。冒頭の話に戻りますが、こうした神々しいモノに対しての畏怖がないことも、AIを受け入れている要素の1つなのかな、と。

 佐々木:カトリック系の作家に遠藤周作氏という方がいらっしゃいます。彼はカトリック教会から嫌われていたんです。なぜかというと著作『イエスの生涯』で、一般的には奇跡を起こす人であるイエスを、そう描かなかったからなんです。病気の子供が来ると泣いて寄り添っているだけ。目が視えない人が来るとやっぱり泣いて寄り添っているだけ。全く向き合わずに寄り添って、横で泣いているだけというのが遠藤周作氏のイエス・キリストなんですね。これはある意味すごく日本人的な発想から生まれたイエスだと考えています。
 真正面から人に向き合って子供の病気を治したり、目の視えない女性を助けるのがいわゆる西洋的な神の根源にあるとしたら、日本の神というのは同じ方向を見てただ寄り添っているだけです。同じことがおそらくロボットとAIに対しても言えるようになってきていて、向き合うものではなくて横に寄り添って一緒になにかやってくれる、まさにドラえもんに対して持つ印象を、宗教観としてわたしたち日本人は持っているのではないかと思います。こうした観点を持ってるからこそ、AIに対して前向きなのかもしれません。

 堀江:キリスト教では聖書という本があって、そこに書かれていることが信仰の対象になっていくわけですけれども、仏教の経典というのは数え切れないぐらいあるわけです。一冊の決まった答えがあるわけじゃないんですね。決まった答えがこうですよと言われてわたしたちは生きているんじゃなくて、生きていく自然の流れの中に答えがあるんだみたいな、そういった価値観が日本人にはあるのではないか、と考えていました。

——— 「NEW BELIEF:機械と仮想が⽣み出すシン -信- デザイン」のセッション終了のお時間となりました。ご参加いただきありがとうございました。

ダイジェストムービー

執筆・編集:福家 隆
写真:二上大志郎、柴山あかね(株式会社kusuguru)
映像:田川紘輝、大木賢(nando株式会社)


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