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もしもスクラムマスターが人類学者になったら。

はじめまして、メッシュワークでアシスタントをしている井潟です。

メッシュワークがビジョンとして掲げる「人類学者の目をインストールする」を初めて見たとき、人類学専攻の大学生である私は文字通り、半信半疑でした。メッシュワークの名づけ親であるティム・インゴルドの「人類学とは、世界に入っていき、人々とともにする哲学である」という言葉にわくわくしたことのある学生としての半信と、あくまでも学問である人類学には、ビジネスのような実務の世界との協働は難しいという批判もあるのではないか、そもそも「インストールする」って何なのか、いかに可能か、という半疑です。でも現場に入ってみて初めて分かることもあるだろう!ということで、今はメッシュワークで微力ながらお手伝いをしています。

そんな学生アシスタントの井潟が、2022年4月に合同会社として走り出したばかりのメッシュワークの日常を内側から伝えるマガジン「もしも人類学者の目がインストールされたら」

メッシュワークでは「日常と出会いなおすレッスン①観る」と題して、全四回のオンラインセミナーを開催しました。UXリサーチャー、エンジニア、社会人学生、経営者など幅広い職業・立場の人々が集って人類学的なアプローチで「観る」ことの一端を経験しました。「もしもスクラムマスターが人類学者になったら。」と題した今回は、この「日常と出会いなおすレッスン①観る」の全4回を終えてから3週間後に開催したオンライン座談会で、参加者の皆さまからいただいた声を届けるnoteの前編です。

「エスノグラフィー」との出会い

セミナーの参加者が全国から集まっていたこともあり、座談会はオンラインで開催した。早速、参加してくださった皆さんに、「人類学」や「エスノグラフィー」という言葉との出会いについて、聞いてみた。メッシュワークとして最初のオンラインセミナーに来るくらいだから日頃からアンテナを張っている方々なんだろう、と気になったのだ。

2022年7月に開催した対面セミナーにて

UXデザインや行政との課題解決の仕事に取り組む藤本孝さんは、なんと90年代からデザインリサーチの手法としての「エスノグラフィー」に触れていた。

90年代、アメリカのデザイナーとガスコンロ開発の仕事をしたとき、「エスノグラフィー」をやると言って、社会学者をアメリカからわざわざ日本に連れてきた。その社会学者は家を訪問しては住人に料理をさせてその様子を観察したり、冷蔵庫から食器棚から写真を撮影し、膨大なデータを整理したりしていた。商品開発にマーケティングでもデザインでもない要素が入り得るという印象を持ったのは、それが初めてだった。

藤本孝さん

90年代にIDEOが提唱したデザイン思考で「エスノグラフィー」という言葉が紹介されたこともあり、サービスデザインやUX/UIデザインといった、広い意味でのデザインに関わる人たちが、「人類学」にも興味を持つようになったことには納得できる。藤本さんと同じくUXデザインに携わる井手あぐりさんは、ビジネスの文脈における「エスノグラフィー」という言葉の使われ方が曖昧だったことから、プロの人類学者の話を聴いてみたいと思うようになったと語る。併せて、UXデザインに取り組むなかで抱く課題感も共有してくださった。

ビジネスの文脈では単にインタビューを「エスノグラフィー」と呼んでいるように聞こえることもあったが、関連書籍を読むと研究者が民族誌を書く過程はそれと全然違うように感じた。そのあともUXデザイン関連の仕事でインタビューや観察をしたり、Xデザイン学校でビジネスにおける実践的なデザインを学んだりするなかで、アカデミックな人類学者はどうしているのか、気になるようになった。
数値の動きを分析し、仮説を立てて検証していく世界では、発想としてユーザーがAという言葉を使ったらそれはAという意味である、という思考に陥ってしまうこともある。リサーチャーとしては、そのAに含まれているニュアンスを考えるために、立ち止まる機会がほしい、と大きい声で言っていく必要があると思っている。

井手あぐりさん

同じ言葉が異なるユーザーから出てきたとする。全く異なる生活世界に生きているユーザーが、異なる状況で偶然、同じ言葉の列を発したというだけで、同じ意味として括ってしまってもよいものか。そんな疑問を抱きつつ、見ている世界が相互にいかに違うか、そこからいかに違う言葉が現れるのか、ゆっくり検証することが普段の業務ではできない。それを検証する機会とするために、メッシュワークのセミナーへの参加を決めてくださった。

スクラムマスターは人類学者たれ!?

アプリやシステムといった「モノ」と、人が接する領域であるデザイン関連の仕事をされている参加者が目立つ一方、メッシュワーク側が思いがけない場所で「人類学」という言葉に出会っていたのがエンジニアの安ヶ平雄太さんだ。

アジャイルのカンファレンスで「スクラムマスターは人類学者たれ」と言っていた登壇者がいた。エンジニアにとっては耳慣れない言葉なので勉強したいという気持ちが湧いたが、本一冊読んでもどうにもならなそうだった。要するに、「人類学」という言葉を知ったあとに何をすれば良いのか、入り口が分からなかった。そのあと、デザイン関連の読書会コミュニティで比嘉さんの『地道に取り組むイノベーション』を知ったものの、議論についていけるか分からないと思っていたタイミングで、メッシュワークのセミナーを見つけた。

安ケ平雄太さん

エンジニアの世界とは無縁の生活を送っている私にとっては、「アジャイル」や「スクラムマスター」という言葉の方が耳慣れない。調べてみると「アジャイル」あるいは「アジャイル開発」とは、小さな単位で動くソフトウェアを作るという考え方であり方法論で、その具体的な手法に「スクラム」があるらしい。その手法では、目標を定めるのがプロダクトオーナーで、設定した目標に至るまでにチームをさまざまな形で支援するのがスクラムマスターである。チームのメンバーのコーチングからミーティングの進行まで、チーム全体と、それを構成する個の状況を把握しつつ調整する役割が求められるようだ。セミナーを通じて安ヶ平さんに「スクラムマスターは人類学者たれ」という言葉が腑に落ちたか聞くと、次のような答えが返ってきた。

スクラムマスターはユーザーと一緒にいるわけではないが、チームのメンバーとともにいる。小川さやかさんと比嘉さんの対談でも出てきたように、人類学者が意外とアンケートやインタビューに頼らないというのは、一次情報、 現場を観察する必要があるから。チームの状況を常に観察する必要があるという点でスクラムマスターも一緒である、ということなんだろう、と思っている。

安ヶ平雄太さん

既にフィールドに身を置いている人々

メッシュワーク側が予想もしないかたちで参加者は「人類学」や「エスノグラフィー」と出会ったり、職場での経験や、比嘉さんと文化人類学者の小川さやかさんの対談といったコンテンツと、セミナーでの学びを接続したりしていることが、話を聴いていると分かる。セミナーでの比嘉さんの話は少し抽象的になることがあり、実感を伴って伝わっているのだろうか、と私自身が横で聴きながら不安になることがあった。しかし、深めたい「フィールド」をまだ定めていない学生の私と違い、多くが社会人である参加者の皆さんは既に自分の「フィールド」を持っている。その「フィールド」での経験が豊富だからこそ、比嘉さんの言っていることってこういうことかも、と腹落ちしやすいのではないか、と今は考える。抽象と具体を行き来しながら理解するための、助けになる材料をより多く持っているということである。

一方で、「そういうことか」と納得した状態に早めに到達するために、それ以上立ち止まって考えなくなってしまうなんてことも、もしかしたらあるのかもしれない。いずれにせよ、「もしも人々に人類学者の目がインストールされたら」と考えるメッシュワークの挑戦は、「既に各自のフィールドの中に身を置いている人々が、もしも人類学者の姿勢を身につけたら」について考えることに等しいように思う。既にフィールドに身を置いている人々は、フィールドについての情報を豊富に持っている人々である。そうした人々はメッシュワーク側も予想しないかたちで、例えばスクラムマスターが人類学者になったりしながら、彼らのフィールドの経験をメッシュワークの学びと接続していく。ただ、それ自体が面白いというだけにとどまらない。どのような実践に繋がっているのかについて、noteの後編でもう少し触れていく。

本記事で話を聞かせてくださった井手あぐりさんご自身が、「日常と出会い直すレッスン①観る」を振り返って書いてくださったnoteはこちら

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