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第7回(最終回) 「住む」フィールドワークの可能性

今回私たちが実施した団地のフィールドワークプロジェクトは、おかげさまで予定の期間を終え、無事に幕を閉じた。あらゆるフィールドワークがそうであるように、もっと長く滞在すればもっとわかることも増えていったであろうし、様々な人との出会いも増え、そこでの関わりをさらに深めていけたに違いない。そういった意味で未練がないといえば嘘になる。とはいえ限られた期間と状況のなかで「住む」という選択をし、その目線で行ったフィールドワークだったからこそ、気づけたことはあったはずだ。団地に住むフィールドワークの可能性とは何だったのか、そこにどんな価値があったのか。簡単に振りかえってみたい。

①    人や出来事に出会う可能性にひらかれる
ある特定の機会のみ現地を訪問するのではなく、24時間その場に身を置き、人々とともに生活するフィールドワークは、正直なところ手間もかかり多くのエネルギーを使う。それでもなお、何気なく過ごす「日常」の時間があるからこそ、そこでなんらかの出来事と偶発的に出会う可能性がうまれる。事前に想定した流れを現場でそのままなぞろうとするのではなく、自らを予期せぬ出会いにひらかれた状態にしておくことが、フィールドワークを進めるうえではとても大切だ。公園のベンチやバス停の列でたまたま居あわせた人と生まれる会話もあれば、商店街での買い物で店主と他の客とおしゃべりが弾むこともある。ICレコーダーを置き会議室で行うインタビューでは決して聞くことのできない、生きた会話やインタラクションがそこでは繰りひろげられている。そうした些細な出来事に日々積極的に触れていくことが、やがて私たちに重要な気づきをもたらしていく。

②    人々の生活圏や周囲との関わりがみえてくる
「住む」フィールドワークとはつまり、自分が団地住民のひとりとしてそこでの生活を成りたたせるべく、周囲の環境との関わりを徐々に構築していくプロセスであった。たとえば新居に必要なものを、自分の足で近所の店を巡って買い足していくことが、この団地における購買行動を知ることにつながり、そこから団地住民の生活圏も見えてくる。一般的な調査はどうしても個人の一側面=点を捉えることに終始しがちだが、人々の生活はその社会関係や行動圏の網の目なかで築かれ、成立しているのであって、点から線を、そして線の絡みあいを見ていくことでこそ、生活のリアリティに迫ることが可能となるはずだ。調査者自身もそうした線の流れを経験し、また線の絡み合い=人々の関わりのなかに少しずつ入っていくことによって、現地の暮らしを成立させる要素やその背景にある文脈、多様なコミュニティの存在を立体的に可視化していくことができる。

以上のような意識をもってフィールドワークを行ってみると、数時間の現地視察では決して見えてこなかったであろう多様な側面があらわになり、このnoteの連載にも書き切れなかったいくつもの論点が浮かびあがってきた。特に今回のプロジェクトでは、2人の人類学者がそれぞれ異なった団地で生活しながら調査したことによって、「首都圏のUR都市機構の団地」にも各々の違いがあり、個別的な特徴があることが具体的に見えた。そして今後、各団地の暮らしをより豊かにするための実践のプランにも多様な選択肢があることが明らかにされた

団地の未来を語りはじめるよりも前に、まずはこの特有の社会空間が持つ魅力や可能性、あるいは現状の課題や限界がどこにあるのかを、個別の団地と出来事に寄りそった形で丁寧に知ること。また何よりも、住民の方々が何を考え、感じ、日々どのように暮らしているのかを可能な限り明らかにしておくこと。それらのプロセスから得られた知見を用いてこそ、次のステップを、たとえば団地を活性化させるための社会実装の具体的なビジョンを、より適切なかたちで定めていくことができるのではないだろうか。団地のみならずあらゆる地域コミュニティに関するプロジェクト設計や、公共性の高いサービスデザインにおける社会包摂的なプロセスの一環として、この「住む」フィールドワークの可能性が理解されていく、今回の事例がそんな一助にもなればいいと考えている。(比嘉)

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