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知恵の実🍎ってなんだったのか⁉️ファッションから見た 生き方の変化。

前もって言っておくと
私はクリスチャンではない 😅
聖書も読んだ事ない…… ⇦旧約聖書は読んでみたいと思っている。

そんな私がなぜ⁉️ こんな事を考えたのか。

昨日 カラフルな表紙帯に目がとまり
買ってきた本。 
今朝 読んでいる時にふと思いついた。

この本の中に 著者の斎名さんが全裸の氣持ち良さを記している項目がある。

この内容を読んでいる時に
知恵の実🍎を食べた事で 
裸でいる事を恥ずかしいと衣服を纏ったとかじゃなかったかなー…………  と思い出した。

そういえば ウチのコーダ(犬🐶)は ある意味裸ということになるのか⁉️

さて この裸でいる事で 緩む感覚が心地よいと
著者は語っている。
それはなんとなく わかる🧐
たしかに 解放出来る事は生きやすさでもある。

という事は 衣服を纏うというのは 
緊張でもあるのか⁉️  なんて事を考えた。

要するに 知恵の実🍎を食べたことで 
窮屈さを手に入れた。
それによって 広がった世界もある。

衣服の文化歴史を見ると
もともと日本人は 着物👘の文化
前開き型で 布を紐で縛り着付けるスタイル
腹(丹田)で布を固定し 着付ける

それが西洋文化とともに 肩から布が垂れ下がるスタイルへと変化した。

お腹を大切に生きていた民族が 
着装ひとつからも沢山の変化が起きた。

ファッションという幅は広がったのかもしれないが
生き方の軸はブレた原因でもあるのかもしれない。

その理由として 

"自分の似合う服がわからない"

という理由が本当に多い。
完全に 服に合わせる生き方にシフトしてしまったことで生み出された悩み。
衣服の形も 着物に比べたら複雑になった。

似合う服がわからないから 
拗らせた内容の悩みがどんどんおおくなる。
それは スタイルの悩み。
年齢などによる 
スタイルの変化を受け入れられないと 
自己否定につながり始める。

着物の感覚で考えると。
胴回りをおさめるために 
身幅をどのくらい重ねるか⁉️  程度のことで 
布が筒状になる着方はどんなスタイルの人でも同じ。
ではどんなところでおしゃれを嗜んでいたか?

それは襟を重ねてみたり
帯の結び方を工夫したり
八掛などの 裏地を鮮やかなものにしてみたり
外に見せるばかりでない 
さりげなく 粋な表現で 
自分というものを魅せていた。

高価なものでなくても 
布の織り方の組み合わせなどで 
同じもののない オリジナルのおしゃれをしていた。

洋装 身体の形を模った それこそ
自分を全面に出した 表現。
とはいえ 同じデザインであっても
肩からどのように布が落ちるかで
表現が変わってくる コレも面白い。
ダイレクトに スタイルとも関係してくる。

タイトルから逸れてきたけど 😅
服に合わせることで ルールが増えて言ってる事もたしかで……

最近では 好きなものと似合うモノは 
違うという考え方
コレも複雑さのひとつに思う。

似合うを決める基準は誰が軸として持つのか⁉️
そこが重要。
自分に軸があれば 好きと似合うはイコールになるのではないかな…… なんて思う。
反論もありそうだけど
自分に軸がある人は 自分をどう演出したいか?
を考えているから モノに合わせる発想ではない。

モノのエネルギーと共鳴していく方を選ぶ。

知恵の実🍎を食べる前は
ダイレクトに 自然とエネルギーの交換、共鳴が
全身でできていたのだとおもう。
体の上に 何も被わないから スタイル形の違いとか考えることもなかったのではないかと思う。

たしかに ウチの犬🐶は 
スタイルなど氣にもしてないように思う 🤣

散歩でいつも会う わんこは
筋肉ついててカッコいいなー
それに比べてオレはお腹タプタプで……
足も短くて……

なんて 1ミリも考えてない 🤣
だから 全力で楽しんだり喜んだり 怒ったり
真剣に寝たり‼️  いつも全力で生きてる。

知恵の実を食べた事で 
全力で生きることが難しい
障害を持ったということなのだろう。

この事実をどう楽しむ⁉️
そんな風に うけとめていけると 
今の私の魅力を伝えるには どのアイテムを使おう❣️とファッションが楽しめるようになりそうだ。

ファッションという おもちゃを手に入れたという事なのだろう❣️

YUKIKO

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