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心に負荷を、

私は割と小さい頃、自分を追い込むのが好きでした。
そしてその追い込みを乗り越えるのが。
きっと、私なりにそういう頑張る自分を好きだという自覚があったのだと思います。


ここからはただの頑張っていた自慢になってしまうと思います。すみません。
幼い頃は運動がすごく得意で、かけっこで転んで負けた時にはこの世の終わりのように泣きました。
そして運動が得意だったからこそ、勉強もがんばりました。
小学生の頃は100点が取れなければ異常なほどに悔しがりました。
毎年学級委員を立候補して投票で当選し、行事ごとの実行委員があれば必ず参加しました。
一年生の時は席がずっと同じ、先生の机の前で決められていて、問題児といわれていた子(私は友達だと思っていましたが)の隣で一年間面倒を見てほしいとお願いされました。
習字や絵や感想文や自由研究、詩や文章も選ばれるようにこれでもかというほど人と競い努力しました。
毎回全てが選ばれるほどには才能はありませんでしたが、表彰されることが嬉しくて、頑張っていました。

学校以外では、バレエを軸にスイミングや英語教室、ピアノを習いました。
中学では部活も運動部に入り、より大変になる勉強とバレエと3つをこなしていました。
部活後にそのままバレエ教室に行って練習し、自主練を終えた後に帰宅して22時ごろ、そのあと課題やテストに向けての勉強をする、さらに学級委員や委員会の仕事や代表になったものの練習に加え、常にどうしたら学級や学年がうまくいくのか日々悩んでいました。
中学生までは、かなりハードな学生生活だったと思います。


報われるような努力をしてきたからこそ、努力すればなんでもできると信じていたし、できなければ自分の努力が足りないだけだと思っていました。


もちろん、正直に話せばうまくいかないことばかりで、完璧なんて程遠かったし、自分のせいでめちゃくちゃになったこと、自分に牙が向いてきたこと、精神的にめちゃくちゃになったこと、色んなことがありました。
でもそれを乗り越えていくたびに、学べたと思ってきたし、強くなったと思っていました。

おそらく、この中学生くらいまでの考え方、強くなるためには自分を痛めつけることが必要なのだ、そして痛めつければ強くなれる、という固定観念が、今もずっと離れないのだと思います。

きっと、その方向性がいつのまにか変わってしまったのです。
苦しむことで認められると思うように。

多分、頑張った自分を認めてほしくて、こんなふうに頑張った自慢を長々としてしまうんだと思うのですが、こんな話がしたかったのではなくて。

今より精神状態がよくなかったころ、自分の中に苦しい気持ちはあるのだけれど、自分から苦しみにいっているような節があることに気がついていました。
本当に苦しい。辛い。
だけど、苦しまないといけないような、苦しんでいないと自分のことが嫌いになるような気持ちに駆られるのです。
言葉でいうのはやっぱり難しいですね。
なんと表現すればよいか分かりませんが、自分を嫌いだと思うことで自己肯定感をあげている気持ちになるかんじです。

やっと最近は、そこから抜け出しました。

しかし今も、映画を見るとき、より精神を削られるようなずっしりとした映画を選ぼうとしてしまいます。
面白かったり、明るかったり、あたたかかったりするような作品ももちろん好きです。
しかし、バッドエンドを望んでしまう。
それはバッドエンドが好きだからではなく、バッドエンドに心を削られることを望むからだと思います。
自分の感情がめちゃくちゃになり、矛盾する複数の思いが全身を駆け巡り、塞ぎ込みたくなるような作品ほど、こんな作品を作ってくれてありがとうと思います。

この固定観念は、一般的にはただしいとは言えないでしょう。
苦しまなくたって、心は豊かになるし、幸せになれる。
ぐちゃぐちゃにならなくたって、人の気持ちを理解できる人はいるし、学べる人もいる。

しかしこの固定観念が、一方で正しくはないことをわかっていながら、ずっと私につきまとうのだと思います。これからもずっと。

自分にとって、利益のある方向に、これが生かされるといいな、と思います。

話が暗くなっちゃった。
すごく元気なんですけど!

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