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「あれは漫才なのか」とか「この人は作家なのか」とか。

なんだか季節の移り変わりや風情なんてものを、
どうにも肌で感じ辛い2020年だったけれど、
今年もまた「M-1グランプリ」が終わって、ようやく
「そうか、もう今年がいくんだなあ」
と年末の気配をふんわりと感じることができるようになった。

わたしにとっては、1年で1番のたのしみと言っても支障ないほど、
心待ちにしているイベントでもあるから、
今年はともかく、無事に開催されたことが本当に本当に嬉しかった。
いいものを見せてもらったなあ、と
例年にも増して感謝したい気持ちになる。

だけれど、どうにもここ数日、愉快な気持ちにはなれなくて、
(それはもちろん他の事情もたくさんあるのだけれど、)
webニュースを見ていても、タイムラインを見ていても
胸がジクジクと痛むことの多い年末になってしまったなあと思う。

酷いニュースの見出し、嫌なツイートをこれでもか、というほど見た。

「あれは漫才じゃない」M-1王者マヂカルラブリーへの批判が相次ぐ「4つの背景」

今年のM-1不評で…和牛とミルクボーイが再評価されるワケ

など、心ない記事が並び、そのサブタイトルには、

「祝福ムードにはほど遠い状態が続く」

とまで書いてあった。

わたしには、どうにもそれが不思議で不思議でしょうがない。
「これは漫才なのか」という議論、それから、それをことさら大袈裟に伝える記事というのは、いったい誰のためのもので、そのペンはなんの必要があってとられたものなんだろう。
いくらか考えてみたのだけれど、
やっぱりそれは皆目よくわからなかった。

「M-1グランプリ」の決勝戦というのは、
毎年その道のプロが採点していて、その結果が決まる。
審査に携わっていなかったプロたちも、
誰もが口を揃えて「あれは、漫才だ」と話している状況だ。
(オセロの松嶋さんは「コントだ」と意見をされていたのだけれど)
普段、「コントとはどんなものか」「漫才とはなんなのか」なんて考えたこともない人が、たった一夜テレビで何気なく見ただけで、
「あんなのは漫才じゃない!」
「決勝で漫才をしていたのは見取り図だけ!」
とタイムラインやニュースのコメント欄にせっせと書き込んでいる。

その結果、本来であればいちばん嬉しいはずの。
人生でいちばん浮かれてしまっていてもおかしくないような、
そんな優勝の翌々日に、ボケの野田クリスタルさんは、

なんにせよ、批判されている方々、擁護していただいてる方々、いろいろご迷惑おかけしております!
来年は満場一致のチャンピオンが生まれますように!

とTwitterで謝罪にも近いような、投稿までされていた。
なぜ、5,081組の頂点に輝いたチャンピオンが、こんなことをしなければいけなくなってしまったんだろう。
とても残念で胸が苦しくなった。

上の投稿は、ともすれば、皮肉とも取られてしまうかもしれない内容だけれど、これまでのマヂカルラブリーを見ていれば、そんな意味ではないことはよくわかる。

3年前、「よう決勝残れたな」と、あれだけ酷評されても頭を下げて去り、勝者のとろサーモンには精一杯の拍手をふたりは送っていた。

翌年2018は、準決勝で涙を飲んだけれど、その敗者復活戦の場では、今年の決勝で披露した「フレンチ」のネタをすでに仕上げて披露し、格闘している姿があった。

翌年2019年には、とあるコンビの人気が頂点に達しているタイミングで、劇場では、そのコンビの「出待ち」や「他劇場への移動」のために、マヂカルラブリーのネタ中に、数人ではなく数十人の観客がワラワラと移動し扉から出ていくことが幾度かあった。
それは、本当に客席がガラガラになってしまうほどだった。
それでも、ふたりは変わらずいつものマヂカルラブリーのネタを舞台でしっかり披露していて、そんなおふたりの様子を、
「強い人たちだなあ」
と心の底から思って眺めていた。

今年のM-1のネタ終わりの採点のタイミングだって、
「ついに帰ってきましたよ〜!」
「リベンジですよ〜〜〜〜!」
と飛び出してきても、きっとおもしろかったはずだけれど、
ふたりは深々と頭を下げながら、
「ありがとうございました」
「本当にありがとうございました、みなさん。戻って来れました」
「すみません、本当に」
と現れた。上沼さんが、愛情たっぷりに
「あんたら、アホやろ(笑)」
と言ったときも、「うれしいです」とやっぱり頭を下げる。
優勝後の記者会見では恐縮しながらも、「キングオブコントの称号も欲しいんです」と語った。

そして今年、制したのは「M-1」だけではない。
野田さんは独学でプログラミングを学び、ゲームまで作って、Rー1に挑み、優勝をその手で勝ち取った。
やっぱり並々ならぬ集中力と根気が窺える。
そのときにも「あれは芸なのか?」と一部で揶揄されていたけれど、
そういった言葉の石を投げてしまう人に、
どうしても尋ねたくなってしまうのは、
「では、どんなものを芸と考えているのか」
ということと、
「日本中の誰もが一様に素晴らしい!と手を叩くものって、あるんだろうか?」
ということだったりする。

「漫才」だってそうなのだ。
セットや衣装に頼らず、センターマイク1本を使って、(M-1では)4分間で笑いを取ればいい。
あのとき、そこには無いはずの「シェフの心臓」や「掴んではちぎれる吊り革」がたしかにわたしたちに見えたじゃないか。
あれを漫才と言わずして、なにを漫才と言うんだろう。

「漫才は無限」「漫才は宇宙」という言葉を聞いたことがある。
演者の世界に引き込まれて、その言葉、その動きだけで、
見えないはずのものが見えたり、行ったことのない場所にだって連れていってもらえる。

「しゃべくり漫才」「漫才コント」…いくつかのジャンルはあれど、
台詞の多さや動きの多さに規定があるだなんて、これっぽちも聞いたことがない。

「わたしには面白かった」「わたしには○○の方が面白かった」
と発言するのは自由で、一向に構わないと思う。
けれど「あれは漫才じゃない!」と本人たちにさえ石を投げたり、
「優勝!」と綴られた記事に、心のないコメントをしたり。
そんなやり方で、なにかを変えることができた経験がこれまでにあったのかなあ、とぼんやりその投稿主たちのことを想像してしまうけれど、
やっぱりそういう気持ちはわたしにはよくわからなかった。

来る日も来る日も舞台に立って、修正と練習を続けてきた。
真夏から予選を繰り返し、仲間たちの敗退も横で見ながら、
やっと思いであの場に立って。
あの日、5,081組の中から1位の称号を勝ち獲った。
「おめでとう」と言えないのなら、
せめて黙っておくのがいいんじゃないかなあ、と心から思う。
心血を注ぎ、その末で勝ち獲った功績にさえケチをつけられてしまう。
そんな様相に、すごくすごく悲しくなってしまった。

同じような話で、Amazonのレビューやツイートで、
「作家と名乗るな」
「この人は作家でしょうか?」
というような文句もよく見かける。
本を出している、作品を世に発表しているんだから「作家」でいいじゃないかとわたしは思うのだけれど、
どうして、人の肩書きがそんなに気になってしまうんだろう。
「良い本だった」「いまいちだった」
と綴るのは、レビューであれば当然だろうし、
人間だもの、好きや嫌いは必ずあるはずだ。
だけれど、「作家でもないのに」「作家とは呼べない」という言葉で、
いったい何を否定したいのかなあ、と悩んでしまう。
作り手って、褒められた言葉にもちろんすごく救われながら、
投げられた言葉の石で何倍も何倍も深く深く傷ついているのに。

ことばって、本当に怖いなあと近頃、これまで以上に思うようになった。
だけど、だからこそ、ことばの力って本当に強い。
「あなたの作品すごく好きです」「とてもいい原稿で泣いてしまいました」「この部分に共感して、わたしも自分について考えてみるきっかけになりました」…
そんなふうに言ってもらえるだけで、たとえば書き手のわたしは本当に本当に報われる。

「頑張ってるね」「すごいね」「おめでとう」、
そう言ってもらえるだけで、日々が本当に本当に救われる。
ああ、間違えじゃなかったんだ…とまた歩き出せるし、
それはきっと誰だって同じことだろう。

伝えられる人には、精一杯伝えたいとわたしは思うし、
そんなふうにことばで救ってもらえる権利を、
わたしたちはみんなみんな持ってるはずだ。
だって、今年もこんなにたくさんこらえたし、こんなにたくさん頑張ったから。

せめて、「要らないことは言わない」。
すこしでもいいなと思ったら、「すごいね」「いいね」と伝える。
それだけで、ずいぶん救われる人が本当にたくさんいるんじゃないかな。

カテゴライズになんて、ちっとも意味がないし、
あれは、立派なチャンピオンの「漫才」だったと、
わたしも、多くの人たちもきっときっと思ってる。
そんな声も、ちゃんとしっかり届くといいな。
マヂカルラブリーお疲れさまでした、おめでとう。
どんな舞台でもけっして変わらないふたりが、最高にかっこいいし、いつもふたりが連れてってくれるのは、最高にくだらなくて目一杯楽しい宇宙だよ。

ただでは転ばないところも、イカしてるんだよなあ。(今夜放送)
マヂラブとノンスタがラジオで「M-1」談義、野田「あれは漫才じゃない」、石田「漫才だ!」

今年も本当におもしろいM-1だったな。
悲しいことで溢れた1年だったけど、あの瞬間忘れることができたもの。
やっぱり、お笑いってすごいなあ。

みなさんが、なるべく気持ちよく、なるべく心地よく、
新しい1年を迎えられますように。
なるべくやさしい言葉で、世界がいっぱいになりますように。

エッセイ執筆の糧になるような、活動に使わせていただきます◎