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先生、退職する その2

 豊原権勇先生は私の大学の研究室の指導教官だった。
 先生は国立漢眠大学を卒業後、守難帝国大学大学院に進学した。嚢葦生物を研究し、その生態と生活史を世界で初めて解明した。5年で5本の論文を書いて学術雑誌に掲載され、修士2年に表3年裏3年と言われた大学院を初めて規定の5年間で修了されるという快挙を成し遂げた。そしてポストが空かないからなかなか就職できないと言われていたのにすぐに漢眠大学の教官として採用され、以降研究と学生の指導に精力的に取り組んだ。先生はいい意味で人を驚かせるような誰も思いつかないような発想、斬新なアイデアを常に探し続け、その分野で初めてとなる研究を次々に発表したり学術雑誌に掲載されたりした。先生が担当した授業や学生実験はとても面白く、ぜひ先生の研究室に入りたいという学生は毎年たくさんいた。
 先生は50歳の節目に、自身の研究を地場産業に活かしたいとして地元である国立果巡大学に移られた。まさに「故郷へ錦を飾る」である。ここでも多くの優秀な学生を育て、業界へ送り出した。定年後は研究の成果を元に地元産業の継続と発展のため一組合員として働くつもりだったそうだ。しかし先生の素晴らしい業績は方々へと知れ渡っており、是非にと請われて私立全塊大学でもう5年教鞭を執ることになった。やるからには国や県の研究機関や大学で研究者として活躍できるような学生を育てていきたいということである。
 定年退職の記念パーティーは漢眠大と果巡大の合同で行われ、優秀な教え子達が100人近く集まった。県の研究機関で働いている人が多いが民間の調査会社に勤めている人や大学の先生をしている人もいるようだ。先生を介して名刺交換してパイプを作ったり研究状況を情報交換したりしている。まさに人脈、そしてその中心に先生がいる。人望があるというか心酔する信者が多い先生なのだ。
 非常にお世話になったのではるばる駆けつけたわけだが、先生の紹介で大学院まで行っておきながら関係のない職を転々とした挙げ句、無職の引きこもりをしている私は肩身が狭かった。

このお話しはフィクションであり、実在の人物・団体・名称とは一切関係ないです

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