優しさというマニュアル?

自分には、人に優しくできるという自信がある。会社では、大きな声で挨拶をする。人に何かしてもらったら、「ありがとう。」と言う。人の好意は素直に受け取る(譲り合うやり取りが無駄だと思うため)。頷きながら人の話を聞く。聞いてから自分の意見を率直に話す。これらのことをマニュアル化している。なぜなら、一貫性のある人間は信用されると考えているからだ。私は、一貫性を保つことを好んでいる。学部時代、心理学を学んだ経験やマクドナルドでリーダーシップとマネジメントを学んだ経験がこれらの考えの基礎にある。

しかし、人に優しくすることがマニュアル化しているというのは、本当の意味での優しさなのだろうか?と疑問に思えてきた。それは、相手の立場に立った優しさではなく、自分本位の優しさなのかもしれない、つまり、表面的には利他的に見えるが、本来的には利己的なのかもしれない。学部時代に、利他的に見える行動でも、人間は結局利己的な生き物であるなんていう話を聞いた気がする。まあでも、自分が為した行いで、事実、相手がいい気持ちになればwin-winなのだからいいじゃないと私は思ってしまうところである。なんというか、真に利他的な行動には感情が通じ合う感覚、psychological contact?みたいなものが伴うのかもしれない。その感覚がないと、利他的に見える行動には、本当は利己的なのではないかという疑問が常にあるように思う。

話は変わるが、27歳にして再び、自分はアスペルガー障害なのではないかと疑いが出てきた。一方で、典型的なアスペルガー障害の方と関わった経験が自分のなかにはあり、その人に比べれば、その程度はかなり軽いように感じる。それでも、新しいコミュニティでは、変わり者で、非常に利己的な人であると思われてしまう。昔から、私はコミュニティに入った当初は、人間関係にかなり苦労する。時間が経つにつれ、周りの人に受け入れてもらえるようになる(みんなそうかもしれないけど)。

昔、研修で健常者はオートマ(automatic)で、自閉症者はマニュアル(manual)なんだよと言っている人がいた。

オートマチックな行動って一体どんなものなのだろうか。あまり分からない。前職の介護施設では、「臨機応変」な対応が求められた。臨機応変とは、その場の状況に応じて適切な判断をすること。臨機応変な対応をするには、目的を把握、今後のことを予測し、時間に余裕をもって行動することが大事らしい。一方で、自分が臨機応変な行動をとったとしても、誰かにとってそれは臨機応変な対応ではないことも往々にしてある。臨機応変の最終責任者は、その場で権威がある人になる。その人が臨機応変かどうかを決めるのだ。行為の主体性が行為者にない時点でそれは臨機応変な対応ではなく、決まりきった対応、つまり、オートマチックではなくマニュアル的な対応である。前職の介護施設では、ある特定の場面以外でお茶を飲むことを担当者が禁止している利用者がいた。それを僕たちは馬鹿正直に守っていた。一方で、別の職員からはその行為は虐待であると指摘されていた。同じ行動でも、判断する人によって良し悪しが別れる。つまり、権威の相対化である。僕たちは児童期にはそんなことを理解しているはずなのだが、職場では、おかしなことがまかり通っている。

何が言いたいかというと、相手の立場に立つだとか、自分の行動を客観的に見るだとか、そんなことは人間には難しいことだと感じるのは私だけであろうか。少なくとも僕にできることは、日々のやりとり、その失敗や成功体験から学び、次回からはこうしようといった具合に具体的な行動をマニュアル化することであると思われる。自分の世界にはオートマチックな行動はない。

まあ経験のなかでA→B→Cという行動パタンを繰り返していたが、ある時A→Cでも同じ結果が得られることに気づき、Bという工程を省略することはある。その一瞬は、オートマチックな行動であるかもしれない。

安定的な人間関係も長い時間をかけて作られるものだと思うし、短い期間で人を解った!なんていう感覚は万能感に酔っているだけではないだろうか。他人とは完全に解り合えないという前提に立って、人を解ろうとする姿勢が大事なのではないだろうか。

今がダメでも1年後OKになっているかもしれないし、5年、10年先はもっと良くなっているかもしれない。人間の一生なんて簡単に予測できるものではない。簡単に人を諦めてはならない。そんなこと言ったら、誰でもOKということになって転職活動で誰を採用するかとか誰と結婚するかとかの基準はないに等しくなってしまうのだけれど、偏愛ではなくより博愛に近い人に僕はなりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?