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自分のための読書を始めよう。 エピソード・0

『読書』というものを、私はこの歳になるまで自分なりにちゃんと考えたことが無かった。
「本を読め」という言葉は、誰しもが誰かから必ず耳にするが、つまり「読書とはいったい何か」を自分なりに考えて理解した上で読書をしている人ってどれくらいいるんだろう。

考えるために自分の読書遍歴を振り返ってみた。

読書は、記憶のあるころには「させられるもの」だった。
夏休みには「読書感想文」が宿題の中に必ずあって、自由研究や漢字ドリルなんかより一番頭を悩ませた。
それでも書いた読書感想文がなぜか入賞し、すごく誇らしかったのだが、これもなぜか入賞の賞状が届かず、当時の担任に聞いてみても取り合ってくれなかった。
このおぼろげに覚えている読書に関するトリプルパンチ(やらされた上に、褒めておきながら放置し、先生からも無視される)で、幼い私にとっての読書は無意味なものになってしまった。

それでも活字嫌いだとかそういうわけではなかった。

たまに図書館で本を借りることはあった。
でも貸出期間に読み終えられることはほとんどなく、その期限付きな読書に窮屈さを感じて読み切らずに返却した本は数知れない。(しかも延滞…)

そんな私を親は小バカにしていたので、本を買ってくれともなかなか言えなかった。

唯一ゆっくり読めたのは、母が持っていたいくつかの本。
中学生くらいにダニエル・スティールなんかを読んだりした。(ほとんどが外国人作家のものだった)
娯楽作品なので、漫画を読むのと大して変わらないとさえ思った。
読み切ったが、、、「これで何がどうなるんだろう?」と心の底で思っていたと感じる。

高校時代は受験に捧げていたようなものなのであまり読書をすることはなく、古典文学の漫画版を、ストーリーをとっとと頭に入れてしまうために読んでいたくらい(テスト対策の一環である)。
「アルジャーノンに花束を」はたしか読んだかな。でもどこでこの本を手に入れたんだろう…?

ちゃんとした読書は大学に入ってから。
大学生協の本屋で平積みされていた夏目漱石の「こころ」と太宰治の「人間失格」を、その小畑健作画の表紙に惹かれて買ってしまったことから始まる。当時、Death Noteも流行っていたと記憶している。
完全にマーケティング戦略に踊らされた安易な学生だったのは否めない…。
が、以前と違ったのは、多少自由になるお金もあったし、一人暮らしだったので小バカにする親もいなかったことである。
つまり、「自分で選んだ本を買い、期限も他人の目も気にすることなく読む」ことができるようになった。

買ってしまったので読んでみた。そしてのめり込むように読み切った。
まだ心理描写で分かりづらいところはあったものの、本を読むことが「楽しい」と思えた瞬間だった。
同時にある程度の経験と歳を重ねないと読んでもわからない本がある、と少しずつ気づき始めた。
漫画や娯楽作品には無い充実感を感じられ、そんな瞬間を求めて近代・現代文学を気の向くままに読んだ。難解で読むのを挫折した本も何冊もあるが…。
当時一世を風靡した、『女性の品格』や『バカの壁』なんかも読んだ。
他者の考えに触れることへの知的好奇心が生まれた、と言ったら適切だろうか。

一時期アメリカに行っていた時は、英語の本よりも日本語の本をよく読んだ。英語に疲れたことによる、反動的な母国語欲求による読書だった。
ただせっかくアメリカにいたので、『風と共に去りぬ』を読んで、アトランタに旅行したりした。

社会人になってからは、文学よりは実用的な本を好む傾向になった。
でも読むだけで、アクションプランにして行動することは無かった。(マコなり社長に怒られそうだなw)
ただ、こういう実用書の読書と、歴史的・文学的価値のある書物を読むことがどうしても違うように感じられ始めたが、理論的に言語化することはできなかった。

フランスに来てからは、アメリカ時代と同じく、フランス語習得の反動として日本語欲求が強くなり、手軽に入手できる「日本語の本」を読み続けた。
そこに「楽しさ」は無かった。母国語への望郷の念と、外国語を理解しようとする時のエネルギーを必要とせずに「理解できる世界」を欲したための読書行動だった。
ワインの仕事を始めてからは、ワイン関連の本ばかりを読んだ。これは自発的かつ実用的興味と必要性による読書だった。

フランス語をある程度習得し、日常生活の9割以上がフランス語という生活にも慣れ、日本語への反動的な欲求もなくなってきたのが、つい最近のことである。
8年が経っていた。

そしてふと自分の読書遍歴を上記のように振り返ってみて、なんと浅はかな読書を続けてしまったし、続けざるを得なかったのだろうかと後悔した。

もう一度自分に問いかける。
「読書とはいったい何か。」

時を同じくしてコロナショックが起きた。
前々から「人間というものがどんどん狭小になってきている」と感じていたが、このショックに対する人間とその集合体としての政府の対応に嫌気がさした。もちろんその中に自分も含まれる。
嫌気がさしても、怒りを覚えても、それをデモ行進などの形で表現することはもちろんできるし許されている(何せフランスだし)が、そうすることにどこまでの意味があるのかと冷めた目で見る自分もいる。
この、自身の中に生まれた葛藤と諦めをどう処理したらよいのだろう。
それに、当たり前の話だが、私一人で世界は変えられない。むしろ、この環境下で生き抜いていくことだけで精一杯だ。
そして私にできることがあるとすれば、それはこんな世界の環境の中でも、できるだけ善く生きようと努力し続けることだけだ。
その礎となる考えを持ちたい。そして、こんな世界で生きていく上での「自分の心の居場所」を作りたいと思った。

そう思った時、読書とは「自分のためにするものなんだ」と、何か光でも差したように理解した。
誰のためでもなく、自分のためにするもので、その読書によって世界への理解を深め、自分の心の居場所を作り、自分にできる行動をしていく。
これが「自分のための読書」、「私にとっての読書」なのだと思った。

適当にあれこれ読んだり、むやみやたらと多読をするのではなく、自分自身で決めた体系に基づいて本を読み進めようと思う。
自分で読む本を決める。なぜそれを読むのかも自分で考えるのだ。

まだ30代後半だ。
さぁ、自分のための読書を始めよう。

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