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『完全無――超越タナトフォビア』第百六章

なぜ、この作品が仏教哲学をアップグレードし得る可能性があるのか、というと、作品世界そのものが無元論を突き詰めようとしているからである、と言えよう。

既存の思想や哲学のすべては、一元論、もしくは多元論、もしくは仏教哲学における中道のような0.5元論に過ぎないからである。

この作品の思想における真の新しさは、まさにその部分の発見にあったと言えよう。

無から有が生まれる云々の中途半端な形而上学的アプローチはすべて、形而上学的-前-最終形真理とわたくしが判別するレベルにある。

西田幾多郎の「絶対無」の概念や、理論物理学における「宇宙無境界仮説」などは、先に触れた、仏教における「空」、すなわち認識論における中道的アプローチなどと同様に、0.5元論である、と言えるだろう。


それにしても……、いやここでちょっと話はずれるんだがね、ダミーワールドとはなんて罪深いシステムなのだろうか……、そう思わないかい。

――あらかじめすでに――完全に無いはずの世界そのものに対して、人間たちが思わず知らず「ある」と呟いてしまうようにダミーワールド自ら画策していたかのようである。

人間たちは見事にその術中にはまって、世界に対して「ある」を連呼し、「ある」によって世界に対して有的亀裂を生ぜしめ、「ある」の大洪水によって無を削りながら歴史をも刻み続けてきたのだ。

存在と「ある」。

そう、人間たちにとって「存在」とはありありとした必然であったのだが、その必然を用意したダミーワールドと完全無との関わり、そのことに関して、わたくし流に解釈させて頂くならば、背徳的な奇跡としての曲解、としかこの時点では解きほぐしようがない、と言っておこう。

ただひとつ確実に言っても差し支えないと思えることは、存在に関することばを人間たちがひとたび口にすれば、そのことばの霊力が織り成す場の超越的深奥(彼岸と此岸という平行関係すら成立しない、という意味合いにおけるような深さ)において、完全無という不可思議がいつの間にか比喩的に隠されている、ということだ。

さて、世界には幅がない。

世界には幅的な量はない。

プランク長ということばも、ファンデルワールス半径ということばも、虚時間ということばも、虚空間ということばも、完全無という「世界の世界性」にとっては意味を成さない。

完全無そのものこそが前-最終形真理を超えた最終的な理であり、秘匿されたままの根本である。

あらゆるエネルギーも、あらゆる粒子も完全無によって――あらかじめすでに――その意義を失ってしまっている。

あらゆる場は完全無である。

つまり、何ものも動くことはない。

何ものそのものもない。

ニセモノの無ではないのだ、完全無とは。

ダミーワールド。

そのワールドの動画はすべての歴史的経緯とすべての存在者とを映し出してはいるが、けっしてその動画を観るものは存在しないはずなのだ。

いや、観るものどころか、ダミーワールド映像の周りには決して何ものも存在し得ないはずだ。

しかし、そのようなダミーワールドというものがある限り、無と有とが接してしまう完全有という世界性を表現するレベルに留まってしまうのではないだろうか。


そして、有に対する過度の思いやり、親切な心持ちで、完全無と完全有とをハイフンで結び付けている限りは、それは形而上学的-前-最終形真理のレベルに留まるだけだろう。

ニセモノの無とは、数字のゼロのことである。

数学におけるゼロとは、ニセモノの無のアナロジーである。

詳しく言おう。

ニセモノの無とは、相対性と関連付けられた無、あるべきもの欠乏を表す無、、指向性を持つ無、無化などの何らかの働きを持つところの無、大きさのある概念から引き算された無、数としてのゼロ、不定という意味合いを引導するところのゼロ、それらの、いわば想定可能な無たちのことである。

西田幾多郎における無は絶対の無というから、ニセモノの無ではないはずである。

しかし、彼は容易にそれを幅的概念としての場、すなわち有的概念と結び付ざるを得ない領域において無を動的に格納してしまっているところが致命傷であり、どうしても形而上学的−前−最終形真理のレベル内に留まらざるを得ない無に固執していた、と言えるだろう。

0(ゼロ)という記号は、0(ゼロ)ではない記号に従属し、0(ゼロ)そのものだけでは独立できない、という点で、すなわち場の中で相関主義的に把捉され得る、という縛りのある非有非無的概念に過ぎない。

さらに、0(ゼロ)という数字の持つ動的無限性にもここで注目しておくべきであろう。

0(ゼロ)という数字は、どこまでも動的な無限可能性を秘めている。

つまり、数字というものは静的無限として捉えられないが故に、完全無とは袂を分かつ宿命にある、ということなのだ。

それを暴くためには「小数点以下」という概念を援用するだけでよいだろう。

0は0.00000000でもあり得るし、0.00000000000でもあり得るし、0.00000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000でもあり得るということ。

数字を名乗る限りは、可能性としての無限に発散せざるを得ない、という点で、いかなる数字も動的かつ無限というニセモノへと墜落してしまうのだ。

つまり、数字はその数字そのものとして仁王立ちすることはできない、ということ。

つねに可能性という無限に揺れている、ということ。

無論、ニセモノでもホンモノでもない、完全無そのものもあらゆる概念を――あらかじめすでに――弾き飛ばしているので、静的に独立する、などということもないのだが。

ニセモノとホンモノの円環的な追い掛けっこなどという論理学的コード化から超越している完全無は、そもそも自存しないし他存(たそん)もしない。

ニセモノの無、それは何らかの事象、つまり有的なものと常にリンクされざるを得ない悪夢でもあるのだ。

散りばめられたモノとコトとをすべて取り払ってしまえば空っぽになるような神殿、それこそが数学における数字という概念の中でも最も純粋な存在と言えるゼロという記号の存在事由、それを存在論的に保障する聖なる廃墟としての神殿であり、つまりは人間的スケールの知に過ぎない記号の、意味の場としての正体だったのである。

数字のゼロとは、何ものかを搬入したり搬出したり、いや、何ものかを投棄したり何ものかを略奪したりし得る可能性を持った、ありありとして無残に汚れた、純粋さから遠く逸脱してしまった加減乗除の荒野のことでもある。

しかし、完全無には、場など無い。

場があることが判定できるにも関わらず、絶対的な無という、最も純粋なはずの概念がなぜか有と無理矢理関付けることで思想的に標榜するという曖昧性(つまり、それは絶対的な無ではなくて、どこまでも相対的な無に留まっているということ)は、完全無-完全有という表記、すなわち今やわたくしの中でニセモノの概念と堕してしまった表現と同値ではないだろうか。

完全無のひとつ前の段階としての完全有とは、まだまだ場という概念に依拠している位相のことであり、そこに新しい思想など、無い。

今や、ありとあらゆる有は、それが有であると認められる限りは、形而上学的に、もしくは形而下学的に補足されざるを得ない概念へと零落した、ということ。

西田幾多郎的な絶対無の場所といった概念も、ニセモノの無と有との関係性、要するにわたくし流の表記で示すならば、完全無-完全有という曖昧性に依拠した世界性を指向しているに過ぎない、として却下できるわけである。

あらゆる情報の媒体から、あらゆる情報の空間から、すべての動的無限性、すなわち数字を消去せよ。

人間たちは「数」という駄々っ子を産み出し過ぎた。

焼却することに人間たちは忙しくなるだろう。

幾世紀などという時間量では済まないだろう。

時間と空間の綾なすダミーワールドに生きている、と錯覚できているうちは、数に翻弄され続けるだろう。

人間たちが滅びるまで「数」を燃やし続けなくてはならないだろう。

その灰はどこに処分するのか?

灰としての「数」は灰として悪夢的に漂い続けるだろう。

タナトフォビアの元凶としての「数」。

だからこそ、わたくしは早々に【理(り)】そのものと成りおおせたかったのだろう。

そう、わたくしが、真のタナトフォビアであった頃、世界は「数」の羅列のノイズとして見えたのだ。

わたくしにとって世界とは無風ではあり得なかった。

目が眩むほどに飛び交う「数」といっても、それは単なる表記的な「数」のことではない。

何もかもがわたくしに数えることを、数え続けることを強いるような、そのような「数」のことだ。

何を見、何を聴き、いや、五感に関わるすべての事象が、わたくしの感覚の根拠に対して、「数」によって定義することを強いるのだ。

世界のどこを歩いても、わたくしは何らかの存在者に遭遇する。

存在者とは「数」の詰め物であって、その中では数という概念と、その概念操作の強迫とが絶えず蠢いている。

自分だけが存在者ではなかった。

真っ暗な独りの部屋の中でさえ、暗闇とは「数」のざわめき、存在者の犇(ひし)めきであった。

「数」が蠢き回るが故に、数同士の擦れる音がわたくしの肌に蟻走する。

横になり、暗闇の中でスマホの画面を開けば、光無き光という数の放射が、擬似の太陽の氷結となってわたくしの認識の根拠に触れる、そのような感じもした。

わたくしは思い出す。

聖書はこう言っていた。

「太陽の下、新しいものは何ひとつない」というコヘレトのことばのことだ。

いや、それは違うだろう。

日毎夜毎(ひごとよごと)にスマホに触れれば、わたくしは常に新しい「数」の産生へとその魂ごと埋め付けられてゆくのだから。

闇をスマホの光で削ってしまったことへの罰として、削ってしまったその分だけの魂が、「数」の産生工場のメカニズムそのものとして、部分化された、引き千切られたわたくしとして据え付けられ、「数」の存在論的苦笑いと同化してしまうのだ。

わたくしは、わたくしの魂までも「数」と化してしまったこと、その「数」のレゾンデートルである、あの無気味な無限性へといやがうえにも組み込まれてしまうという恐ろしさ、それもタナトフォビアの一側面であるのだ、とそのとき悟ったのだ。

それは無限の変化を想起させ、それはわたくしをいかようにも変形させ、単なる「数」の増殖の、その一部を担わざるを得ないわたくしの責務を思わせた。

そのときの、(いや「その頃の」と言うべきか)わたくしは、わたくしの意識の統一性が失われたまま、無限に何ものかへと変転するだけで、決して同一性を担保したわたくしという存在の再生への希望が、終末に触れていることに対して大変に畏怖していた。

畏怖どころではない。わたくしの全身全霊が、わたくしの最も純粋な輪郭そのものが、非哲学的不安そのものとなってしまっていたのだ。

重い話だ。

まあよい。

そんなことよりも、つまりわたくしのタナトフォビア経験の話よりも優先すべきは、「数」についてもっと詰めていかねばならない、というこの今の情況だろう。

そして、詩人ランボーが『地獄の季節』の中で表現しているような肉体や魂の内側において所有できるような真理、というものは、前-最終形真理に過ぎない、という決然とした態度をこそ忘れてはならないはずだ。

肉体・身体、魂・精神、そのような容れものとしての何ものか、そのような場としての何ものか、そのような幅としての何ものか、それらは完全無においては絶賛失効中だ。

肉体や魂、内側(内在性)や外側(外在性)などという表現は安易に哲学的気分を醸し出すだけだ。

確かに、わたくしも「魂」などというイージーな単語を何度も使用してしまってはいる。

しかし、それは作品をことばによって構築する際に生じる必要悪に過ぎない。

「世界の世界性」たる完全無という名の「原約」としての【理(り)】などと、いちいちけったいなことばを並べ立てているるのも、便宜上の必要性からに過ぎない。

さて、それはともかく、人間たちは「数」に依拠して様々な変化量を様々な関係性として計算する。

様々な計算によって様々な数値を弾き出すことは、確かに可能である。

しかし、それはあらよる可能性がすでに完成してしまっている世界においては、限定的な、つまり届かせようとしても届くことのない真理に過ぎない。

「数」のそれぞれとは、可能性のそれぞれと対応するものだ。

「数」は無限である。

離散的に表された整数という概念ですら、無限という名の罰則を逃れることはできないではないか。

わたくしはこう考える。

たとえば、整数としての5という数字、君は本当に、正真正銘、5そのものなのかい、と。

5という整数は、5という整数のみで世界に存在することはできないだろう。

5という整数は5という整数以外のすべての数字との差異、比較によって成立せざるを得ないからである。

それに、実数の5という数字をよくよく調査してみると、先に0(ゼロ)に関して「小数点以下」という概念を援用できる、と主張したことと同義で、5とのみ表記されたはずの5の正体は、5.000000000……、ではなく、5.0000000001……、の可能性もあれば、5.00000000000006……、の可能性もある、と言えないだろうか。

表記そのものだけそ信用することはできない、ということ。

「数」というものは実は規約の陰ににあぐらをかいて、その正体を隠さざるを得ないものなのである。

完璧なる5は理念的にも形而上学的にも存在し得ないし、元より形而下学的な現象としても精確さを保持した状態では存在し得ない。

「数」というものに囚われ過ぎると、成就されない可能性に期待を込めて無限に求め続けなければならないだろう。

そして、それは不甲斐ない回り道であるだろう。

しかし、そのような道を辿ることで得られる世界に対する認識、体感など完全無の世界からすればニセモノである、ということを、わたくしが今や存在のすべてを賭けて確信済みであるということは読者の方々に十分ご理解頂けていることだと勝手に思っている。

「数」に頼らざるを得ないあらゆる概念、あらゆる概念操作、そしてそこから導き出されるあらゆる定義の数々、それらを、わたくしは前-最終形真理と呼ぶのだ。

そもそもの初めから、人間たちの創り出した真理というものは人間的スケールの枠内でしか、つまり人間たちだけにしか通用しない。

宇宙に完全な真空があろうとなかろうと、宇宙に時間や空間があろうとなかろうと、完全無としての世界はびくともしない。

あらゆることばは人間たちにだけ通用する、ということが大前提だからである。

そして、完全無という概念も、もちろんことばだ。

だがしかし、わたくしは語ることをやめるつもりはない。

完全無が偉大だからだ。

完全無がわたくしを救ったからである。

完全無はしかし教祖ではない。

完全無は経典ではない。

完全無には何もない。

完全無を有に置換することも、全単写することもできない。

完全無は可逆性も非可逆性も保存しない。

完全無と有を重ね合わせることはできない。

完全無には重ね合わせる場など無い。

完全無と有を掛け合わせることもできない。

完全無には可換性も非可換性も無い、からである。


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