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完全無――超越タナトフォビア』第九十五章

 

 

世界そのものには相関によって規約される何ものも存在しない。

なぜなら完全無とは完全無によっても規定されること無き完成された全き無なのだから。

さて、この章より以降の章においては、完全無-完全有という便宜上の表現を揚棄して、完全無、と単体であらわすこととする。

完全無と完全有とが全く同一であるということは、もはやくどくどと再考すべきではないからである。

いや、もしかすると、完全無と完全有とが同一ではない可能性にわたくしが導かれているかもしれない、ということも予想し得る(後章に期待されよ)。


さて、話を戻して、ある現象が自らの外側にであれ内側にであれ、何ものかに働きかけることで世界を構成するということはない。

媒介する変数、補助としての変数、母数、引数、いや、あらゆる数は――あらかじめすでに――締め出されているのだ、完全無によって。

気遣いによって世界が外側もしくは内側に成り立っていくこともない、ということだ。

人間たちが何らかの「何か」すなわち個としての現象に気付こうと気付くまいと、全くもって何もありはしないのだ。

もとより消去すべき個はひとつもなく、個によって構成される全者もない。

人間たちが実存しようとしまいと「世界の世界性」は完全に無である。

そして、完全な無は完全な有でしかあり得ない、という誤読を忘却すること。

そのような視点は確かにこの作品の前半においては定立されていなかったことは認めよう。

しかし、わたくしはこの作品の語りとともに【理(り)】へと最接近することができたのだと歓喜する。

完全な無は完全な有に等しい、とことばにするとき、完全な有のイメージとは最大数が確定してしまっている最高度に豊穣な世界であった。

しかし、それはニセモノの有なのだ。

有ということばは「世界の世界性」においては、完全無へと吸収されてしまっている。

圧倒的なディスコミュニケーションのだ、完全無という無的な「原約」は。

個のすべてを判別できないほどに何もかもがすでにあるのだ、という解釈が今となってはぬるかったことを、わたくしは後悔していると言ってもよい。

ニセモノの有とは、人間の脳内におけるダミーワールドに過ぎない、ということに気付けるか気付けないか、それだけが重要なのである。

人間の脳内とは興趣をそそる逸物で、差異や変化を知覚し認識する運命に鎖されているのだ。

そして、脳内メカニズムとは、未来を自ら捏造し続けることを期待できてしまう娯楽追求型コンピュータでもあるのだ。

それは愚かしくも神聖なる能力の発現だと言えないだろうか。

可能性へのあらゆる賭けに人間そのものは投げ込まれることを悦楽として捌いてゆけるのだ。


<strong>チビ</strong>

「いいねー、チビも人間大好きー、とくに、おにいちゃんと、おねえちゃんかな。

さすが、しっぽのないきつねくん。

意味不明だけど、熱くみなぎるソウルがいいね。

見直したー!」

<strong>きつねくん</strong>

「チビ、しっぽのないことで褒められるとは無的に最高の気分だよ。チビ、いやチビたち、そして読者の方々、気分がアッパーになってきたみたいなので、まだまだわたくしの話を聞いてもらおうではないか」


さて、世界は完全無であるからこそ、完全有なのである、という文言に人間的スケールにおける正しい意味があるとするならば、完全無は世界の装備、完全有は人間の側の装備である、そのようなメタファーが成立する、ということだろう。

ただし、完全有に対して真に理解している人間たちがいるかどうかは不明である。

だからこそ、この思想は「新しい思想」なのだが。

要するに、有に関して、何らかの現象の流れ、変化、蓄積、連続性、などというパラメータを布置してしまうのが、人間たちの業(ごう)であろう。

完全なる有とは、それらのパラメータを満たすあらゆる変数である、と短絡してしまうのだ。

しかしわたくしの定義する完全有とは、完全無でなければならない、ということは再三申し上げたはずである。

世界はあらかじめ完全無である、何もかも、すなわちすべての可能性をあらかじめ消去された完成形が世界なのである。

よって有ということばをいかなる意味で用いようとも、「何かがある」ということが成立しない完全無の世界においては、全く何も無い、という認識論的大転回をしなくてはならないのである。

ということは、有ということばだけに限らず、あらゆることばは世界そのも

のにおいては何らの価値も持ち得ない、ということでもあるのだ。

(そのとき、ウィッシュが、小首を傾げて視線をゆっくりとフロアに落としつつ、何かに頷いた。そして、その何かを得たのか失ったのか自分でも分からない、そのことがもどかしいかのように、わたくしの目をおもむろに見つめ上げる。)

そういえば、「宇宙のビッグバン以前とは、ダークエネルギーという完全無の属性を持つ輩たちが、宇宙を裏返すように完全無の方へと引っ張っている領域かもしれませんね。

現在の宇宙はそれを引っ張り返そうとして膨張しているのかもしれません。宇宙レベルの綱引き!

もしくは、完全無の世界から爆発して完全有をつくりだそうと躍起になって膨らんでいるのかもしれない、チビさんがよくほっぺを膨らましたり、くぼましたりするみたいにです」なんて、ウィッシュボーンが、数日前、詩的かつロマンチックに解釈していたことを、思い出したよ。

(きつねくんはドリンクの表面にへばり付いた水滴のぬるさを中指に感じながら、ふとウィッシュボーンの顔に微笑み掛けてみる。)

(ウィッシュはきつねくんに対して微笑みが微笑みなる前のプロトタイプの笑みで返答しようとするが、その意志がもやもやとした感情によって打ち消されてしまうのを恥じるようにまばたきを繰り返した。)

(まあそれも、ロマンティックな「人それぞれ理論」としては、OKだろう。

いや、ウィッシュボーンはれっきとした犬であるから「犬それぞれ理論」と呼ぶべきではあるな、ときつねくんはウィッシュボーンにほかほかのウィンクを投げる。)

(頬の筋肉が硬くて中途半端に片目をあけたままのそのウィンクに、ウィッシュボーンはもやもやが弾けたかのように、高らかに、ワン! と一吠え、マックの店内にそれを響かせた。)


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