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『完全無――超越タナトフォビア』第八十五章


人間たちが人間たちの感性的直観の形式を規定するために、強引に感性的世界の構造を担う奴隷として生み出した変数が、「時間」、「空間」、「距離」、「速さ」などという記号であって、世界そのもの、つまり本来的な観点から鑑みれば、上下左右どころか、あらゆる矢印の方向性は存在し得ないし、基準点となるような定位置も、座標無き世界においては持ち得ないのだ。

なぜならば、任意の点そのものだけに無的に注目すれば、時間的にも空間的にもある固定されたひとつの全体性として、すなわち、それが、完結したものとして存在していることが確証的であるならば、任意の点とは、任意の点以外のあらゆる点を共に引き連れざるを得ないような、すなわち、どこまでも無限に拡張してしまう可能性全体として生成せざるを得ない動的概念の産声でしかあり得ないからだ。

ある一点が偽の世界全体を敷き詰める、そのような織物が意識を動的に覆い尽くしてしまうからである。

完全無-完全有においては、動的な存在者は――あらかじめすでに――成立しない。

ここで、あらゆる存在者という全体を無限に分節したとき、それらの分節のおのおのが「今ここ」という粒だと仮定しよう。

すべての主体の感性的直観がすべての「今ここ」が「今ここ」であることを声高に肯定し、半ば強制的に叫び出すだすのは、「今ここ」が「原約」としての完全無-完全有に対する贖罪の呻きによって自身の耳を塞ぐためである。

宇宙の「端A」から「端B」への距離が何兆光年であろうとも、その距離内にあるすべての「今ここ」は完全無-完全有という「原約」に忠実である限りは、無的に重ならざるを得ないはずだ。

たとえば、宇宙の「端A」から「端B」へと、とある「人物C」が向かうとしよう。

そのとき「無的に重なる」ということの意味は、そのとある「人物C」は、別に「時間」、「空間」、「距離」、「速さ」と呼ばれる幅のある概念を体現しているわけではなくて、仮構されたに過ぎない位置という標識を(主体の側からすると)、その都度遭遇する客体のすべてと、互いに無的に変換し合うだけのことなのである。

だがしかし、完全無-完全有という名の「世界の世界性」とは、位置無き完遂としての栄光の無であり、当然のことながら無とは有と同値である。

とある「人物C」が一般常識的な観点で語られるところの、あらゆる一挙手一投足を自由意志的に生成させたかのように見えたとしても、それらすべての運動的はたらきは、どこまでいっても無的である。

もとよりエンドロールは流れない。

幅を埋めることなど主体無き世界においてはいかなる奴隷の営為によっても不可能事なのである。

世界そのものには基準点も原点もない。

いかなる粒がいかに動こうとも、いかに確率論的に発生しようとも、それは速度無き無のエスカレーターを疾走しようと躍起になっている人間たちの特殊な幻影であって、そのイリュージョンとの邂逅を、科学的事実というパッケージとしてうやうやしく差し出し、エネルギーで着飾った粒のあれこれによる生成と消滅のロンドがいかに盛り立てようとも、哲学的には生成と消滅といったはたらきは、ほんの刹那も成立してはいない。

世界の素子をスケールの違いを見極めたうえで、つまり状態の複合化を分析でき得る仮説を用意するところまで研究し、それを数学的に定義するのが、この二十一世紀流行りの量子力学的アプローチではないだろうか。

その学問とよく対比されるのが、仏教における華厳思想、すなわちミクロコスモスとマクロコスモスの重々無尽を描き切ったともいえる「一即多-多即一」という世界観なのだが、とりあえずここでは、大乗仏教的スローガンの英雄である『般若心経』の核にさらりと触れておきたいと思う。

世界はあらゆる粒で埋まっている、という無限に分割できる有としての世界の現象的把捉の仕方は、『般若心経』における「色即是空」という定義などでも御馴染みであるが、わたくしの【理(り)】における有とは、あらゆる粒の総合体ではなく、は無の粒の無的な重なりと言ってもよいものなのだ。

ちなみに、「色即是空」-「空即是色」という仏教的真理に関しては批判も多い。

「色=空(空=非有非無)」とは同時に、「空(=非有非無)=色」であると誰もが解釈できるのだが、それだけでは「世界の世界性」の定義としては、不足なのである。

なぜなら、「空」とは非有非無の中道、有と無と昇華された、いわば弁証法的動性から逃れられないからであり、まさにそれこそが「縁起」の法であるのだが、完全無-完全有においては、なにかとなにかとを比較し、対立させ、新規の概念を生成せしめる、ということが起こり得ないからである。

その『般若心経』の世界観は、わたくしの到達すべき【理(り)】への足掛かりとして学ぶべきものが多いのは確かではある。

しかし、仏教の基礎は「縁起」という相関主義である。

相関主義が成立するためには、相関するものと相関されるものとの距離が必要である。

しかし、無的に完結してしまった「世界の世界性」、すなわち完全無-完全有とは、互いに関わり合うための感性的直観の形式は存在しない。

完全無-完全有の観点から見れば、無時間的かる無空間的に達成させられてしまっているところのあらゆるはたらき(エネルギーと言ってもよい)が、どこの誰にも示されることもなく、感得されることもなく、伝達されることもなく、いかなる素粒子であろうが電子であろうが、ただただ完成された世界においては、完成された世界のダミーを時空論的になぞり返しているだけだからである。

人間たちの感性的直観が気分として、完成された世界のダミー、その意義を希求することに長けているからであり、いかに世界の根源を突き詰めようと物理学的に模索したところで(空理空論とはよく言ったものだ)、あらゆる数式は無的に空回りする運命に噛み付かれているはずだ。

もちろん、わたくしのこの落書きのような哲学もどきの作品における思惟というものみ、空理空論に過ぎない。

だが、それがいい。

空理空論こそが世界を変える。

時間という綺麗事に意義があるとすれば、このようにわたくしが語れている、というそのことだけであろう。

全歴史的に地球のあちこちで、学術的に記述され口述され記録された、あるいは瞑想された、時間という概念のあらゆる類語的表現は、たとえ多くの人間たちに共有されようとも、完全無-完全有という名の「世界の世界性」においては有効性を持ち得ない。

たとえば、「刹那」や「而今(にこん)」すなわち「一瞬」という意味合いを持つことばたちも、幅を持つ概念であるというその宿痾(しゅくあ)のために、わたくしの【理(り)】への到達という問題と引き比べるならば、前-最終形真理へとわたくしを足留めするボール&チェインに過ぎない、ということなのだ。

厳密性を欠くことなく、ミクロな観点を超えて、無限小も無限大も、つまり対義語関係的真理を超える観点から、時間にまつわるあらゆる概念を捉ようとするならば、即座に却下できることばたちとは時間に関するあらゆる類語のことなのだ。

対義語関係や否定語関係における二つの語の主従関係など世界そのものには存在し得ない。

主人と奴隷というありふれた社会的関係性は交換可能なのでもなく、交換不可能なのでもなく、根源的には幅を持ち得ないが故にレトリックの鎧に身を固めた無的概念の挑発、幾らか嗤いを誘う煽りに過ぎない。

あらゆることばには差異などない。

あらゆる事象は対立も反目もしなければ、協調も馴れ合いもしない。

ことば、そして、ことばによる概念操作という手法を使えば、ことばの差異が、意味の差違であると認識してしまうこと、そしてその差異を埋めるために相関的に、精妙なことばを持ち出すならば、間主観的に、ということなのだが、ともかく、繋がろうとするこころとからだというものを人間たちは知性的に持ってしまっているが、そのような遺伝的限界状況(それはカテゴリーという呪いである)による世界への対峙の仕方、それは、完全無-完全有というパーフェクトな世界そのものを否定するという「愛」、そう、人間たちが思わず知らず産出した強固なイズムであるところの「愛」、と呼ぶことに対して、わたくしは反対はしない。

世界の完璧性に亀裂を入れること、それが「愛」である。

すべては――あらかじめすでに――完璧に遂行済みであるのに、世界(それは、なぜか巨大ななにものかとしてイメージされる)を分解しては、それぞれのパーツに差異を観取し、観取がその区別という機能を発揮することによって、パーツの関係性を推理し、そこから互いの変化という嘘っぱちの正誤関係をどうにか判断してしまう人間たちが、無意識(無意識の「無」とはニセモノの「無」)の内に、共有幻想を共時的にも通時的にも育むためのこころとからだ、という束縛を共有している、ということは、微笑ましくも悩ましき姿態と言えよう。

「愛」という超越的なエネルギーとは、世界の完遂性に対する人間たちの後付けの、言わばエゴイスティックな感性的主観の、是が否でも世界の構造を定義付けしようとする脆い願いでもあるのだが、ニセモノではない世界という君主無き絶対王朝に対して抗わざるを得ない、という属性のなんと高貴な楽音であることか。

人間たち(敢えてここでは他の生物は含めないでおくが)の性(さが)とは聴く者をなんと惑乱する音で彩ることか。


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