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『完全無――超越タナトフォビア』第八十三章

数では真理をひとつに定めることはできない、と同時に、数によって無限に定められる真理において、どの真理が真に真なのかを定めることもできない、という前提を踏まえつつ、ここでさらに円の話の続きをしようではないか。

もしも円そのものが世界の全体性として固定されていて、すべての波も揺らぎもその全体性の中に格納されている、と仮定するならば、世界を有限なものとして、つまり、いつかどこかで世界をストップさせるシミュレーションが可能である、ということを判定するためのアルゴリズムの正しさを、人間たちが入手したとしても矛盾ではない。

それに対して、円周をぐるんぐるんと駆けずり回らざるを得ないひとつの点の軌跡こそが世界そのものだ、と言うのならば、世界は無限としての動性としてシミュレーションできてしまう、すなわち世界という幅(可能性とその成就の集合体)の上限を布置するようなプログラムの想定は不可能になってしまうだろう。

そして、厳密に言えば、どんな有限のものであっても必ず無限という概念に展開せざるを得ない、という認識論的限界が、人間たちのいじらしくも不敵なる特性と言っても言い過ぎではない、ということが自明のものとなるだろう。

つまり、人間たちが円の話をすれば必ず、有限から無限へとイメージを飛翔させること(仏教的な円環的時空とは無始・無終でありつつも、千変万化止まぬ変化の概念である)以外には、選択肢を持ち得ない、ということが証明されるのだ。

ホワイトボードに浮かぶ円の円周を眺めやれば、誰もが瞬時に無限という存在に衝突することができるだろう。

その円周は境界線であり、この境界線には外側が無限にあるということ。

すなわち全体性というものを設定するやいなや、全体性の外側という無限の連鎖が必ず生じてしまう、そのような思惟に陥らざるを得ないのが人間たちの特質なのではないだろうか。

もちろん、ちょっと気の利いた表現でそれを乗り越えようと躍起になる人間たちもいるかもしれない。

たとえば、円を描き、それを世界の全体性と見なすが、円周という境界はないものと観想せよ、とレトリカルな命令(あらゆる比喩は帳尻合わせに過ぎない)を、いかにも倫理学的にありがたいものとして差し出すような思想が考え得るだろう。

しかし、そのような場合でも、円というものは有限であることから自由である、ということ、言わばサルトル的に表現すれば、自由の刑に引き裂かれている円のはかなさ、ということなのだが、それを想像することは、コーヒー・ブレイクほどの時間があればわたくしたちには可能なはずなのだ。

イメージすればするほど、動的に、強く瞬時に動的に、その円は無限の刑場へと物音ひとつ立てずに収監されてしまうのである。

たとえ円の円周が、それを見る主体のこころの中からその輪郭をなくしてゆくとしても、そこにはホワイトボードという場が、すなわち宇宙そのものにも似た場が立ち現われてくるだけだ。

こころの中でホワイトボードの外側(それは、ホワイトボードを取り巻く三次元的な方向に常に拡散し得る)にあるすべての背景(何らかの質としての確率)が次々と脳内で表象してくる、そのような無限地獄を停止するプログラムを、人間たちは持ち得ない。

ホワイトボードの外側には教室があり、教室の外側には何らかの粒たちが偶然性を背負ってひしめき合っているはずだ。

無限というものがいかに安直に想起されてしまうか、ということのそれは証明でもある。

結局は、その人間たちにとってレゾンデートルでもあるような足枷としての理性的・感性的限界を諦念として認めることで、人間たちは世界というものを無限・(狭義の)永遠などというありふれたことばによって短絡的に結論付けてしまうしかなかったのだろうが、有限という概念も、無限という概念も、【理(り)】の極みというフルコース料理においては、メニューとしてあらかじめ除外されていなければならないはずなのだ。

「ワンネス」すなわち「一(いつ)」をあらわすことが世界そのものではない、というそのことと同様に、「ワンネス」や「一(いつ)」を反転させた世界そのものも、ニセモノの世界である。

完全無-完全有としての世界においては、非代替性トークンを列挙させることもできないし、世界そのものが非代替性トークンであることもなく、有体物が無体物を背景としてフローしてゆくこともない、変化の偏在を体現すべき粒たちが確率論的に遷移を相互に繰り返すこともない、そのような完全無-完全有的「場」こそが「世界の世界そのもの性」であり、当然のことながら、「性」ということばも「場」ということばも、ただの比喩としての無限的差違を格納する近似値に過ぎない、ということにも意を注がねばならない。

状態a、状態b……状態nなどという瞬間瞬間の楔を設定することは、完成された世界、すなわち完全無-完全有においては――あらかじめすでに――抹消済みなのである。

完全、と言うからには、「世界の世界性」として、ただのひとつの現象すら許されない、という性質が無的に完成している、ということ。


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