見出し画像

『完全無――超越タナトフォビア』第六十章

【理(り)】に接近するためには、山ほどの常識的判断を焼却しなくてはならない。

そのひとつとして、出逢いと別れという因果関係(筋書き)は存在しないのだ、ということを肯定する、という非常識的判断という名の焼却炉もあるのだ。

出逢ったのだが別れてしまう、というドラマティックな変化というものが、「世界の世界性」には、無の戯曲的に存在しない。

時間的経過、ない。

空間的変容、ない。

相対的干渉、成立しない。

たとえば愛する人と出逢うこと。

たとえば愛する人と別れること。

それが、主体にとって厳然たる事実として、現前と実在する客観的真理である、と判断でき得るとしても、そのような認識プロセスは、世界に対する暴挙となる。

もはや完成してしまっている完全無-完全有としての「世界の世界性」においては、任意のふたつの時空点のどちらの時空点が「出逢い」に相当しようと、どちらが「別れ」に相当しようと、そのような選択肢的判断そのものは、「人間的スケール」における幻想のお手玉に過ぎない。

わたくしたちは出逢うことができないのだ。

わたくしたちは別れることはできないのだ。

なぜならば、完全無-完全有として世界が完全に埋まっているとするならば、そして完全に埋まっているということが、「幅」無き壁面が最大数として世界に対して完璧に充足してしまっている、ということを表徴するならば、わたくしたちは一体全体どこに点を打てばいいのだろうか。

「世界の世界性」においては、あらゆる自己同一性は仁王立ちできない。

頽落している人間たちは、「幅」無き壁面、という一見ナンセンスなイマージュよりも、常識的に流通している比喩としての物理的な壁面(「幅」のある壁面)の方を好むのだろう。

そのような壁面(物理学的メカニズム、化学的メカニズムなどのビフォア/アフター考究に関する「学」のすべて)が縦横無尽に、要するにネットワーキングとして世界に屹立してしまっているのだろう、というドクサ(臆見)に終始するだけで、胸を撫で下ろしているのだ。

そのようなドクサ(臆見)を滔々と述べれば述べるほど、「世界の世界性」はさらに翳(かす)んでゆくことに気付けないでいるのだ。

頽落している人間たちは、貧困な想像力と、安逸な理性力とに留まらざるを得ない宿命者として存在しているわけではない。

頽落の鎖は自力で引き千切れる程度の強度に過ぎない。

そして、わたくしの【理(り)】が信頼に値するかどうかを推し量るよりも先に、まずはそのような不条理(世界に遍満してしまっているのは、無の壁面としての構造体無きメカニズムなのである、という非常識的なる理知)を魂ごと受けとめる、つまり、完璧性への可能性の成就に対する喜ばしき予知として、魂ごと身心脱落する如く、丸ごとその自己に引き受けてしまう、というところがポイントであり、さらにそれは、【理(り)】に対する正しき礼讃ともなるのである。

たとえ、記憶という人間たちの認知ツールが、その記憶を所持するところの、とある主体に対して、時間や空間の変化というプロセスを隈なく脳内に想起させようとも、記憶による強制力では動かし難い一点、記憶が後押しすることのできない、真理のさらに奥にある核(それは真でも偽でもあり得ない)が、なぜだか世界には根源的にあるのだ、いや、あってしまっているのだ、ということを頽落からの逃走手段として、人間たちは炯炯(けいけい)と気付くべきなのだろう。

そして、そのような核が描かれた画(え)とは、完全無としても完全有としても、全き画であり、それ以上、何も描くべき余白などない、という【理(り)】にわたくしも含め、あらゆる存在者は驚嘆すべきではないだろうか。

わたくしたち生き物を含めたあらゆるモノとコト、無機物・有機物問わず、潜勢態としての事象、現実態としての事象問わず、普遍的事物・特殊的事物問わず、要するに、あらゆる存在者という事態そのもの、それらは「世界の世界性」に対して「幅」無き壁として――あらかじめすでにこれからも――屹立してしまっているのだから、今さらどんな一歩で世界を踏み締めることができるというのか。

あらゆる存在者とは、無限や有限として存在することも、存在の開(あ)けとして世界内に存在することもできない存在者のことであり、端的に言えば、存在者などは存在し得ない、という解釈がわたくしにとっては可能である。

現存在や実存者なる人間たちの存在論的概念、すなわち「世界の世界性」にとっては幻無き幻と言ってもよい概念だが、それすらも全きものとして、あらかじめ「世界の世界性」において、完全無-完全有として放り込まれてしまっているのだ。

結局のところ、四の五の言わず「ある」ということだけである、ということを知れ、と言ってしまえば暴言的であり、この作品に対する暴挙でもあるのだが、わたくし自身が、端的なだけの表現では終わることのないたたかいに、すでにして巻き込まれているのだという自覚を愛しているがゆえに、ここでストップするわけにはいかないのである。

どのような状況や情況が、人間たちの脳裡を表象として掠(かす)めてゆこうとも、ただただすでにゴールしてしまっている世界の世界性は、人間たちという主体の複数性も、わたし・あなた・彼・彼女、などという主体の単数性もその手のひらの上に載せることはできない。

わたくしたちの方が、その点に気付くことができるならば、究極の【理(り)】という完結済みの案件に近付くことくらいはできるだろう、とわたくしは確信しているのである。

あらゆる仏教の経典を読誦しようと写経しようと、仏教における法(ダルマ)そのものは何も変わらないであろう。

イエス・キリストの死をどのように描こうと、どのように書こうと、どのように演じようと、キリスト教におけるイエス・キリストの死という完璧さから滴り落ちる血など、一滴も残されていないだろう。

テセウスの船は海を持たず。

ヘラクレイトスの川は水を持たず。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?