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「「香港スケッチ」評ーまずしいミュージカル」

「香港スケッチ」を観た。哀しくなるくらい、まずしいミュージカルだった。

財閥の跡取り息子のオーウェンと幼馴染の移住者、彼女の名には雪があることが明かされる


 日・英・粤(広東語)の三カ国語でやるのは構わないのだが、どの歌唱、音楽、セリフ、踊り、美術、衣裳、そして思想を取ってもプラスチックだった。クリーンなはりぼて。英語で歌えば否が応でもブロードウェイの栄光と聴き劣りしてしまうし、日本語のセリフも文化的リソーシスが枯渇していて急場しのぎだった。粤劇(えつげき)が蔵する民衆知や、王菲(ワン・フェイ)をはじめとする広東語のポップスが活かされるわけでもない。カンフーはステレオティピカルにあつかわれるだけ。まちの老人が李白の「送友人」が訓読で朗誦したあと、広東語は当時の唐音が保存された感性豊かな言語なんだ、とうそぶくが、ではなぜ広東語で朗誦しなかった!荘魯迅の絶唱を知らないのか。あるいは侯孝賢の「悲情城市」が画面に青い文字を随所に映したように、やりようはいくらでもあったはずだ。そんなに漢字を出すのがいやなのか。
 メロディーは劇と呼応するように根無草で、といってディアスポラ特有の豊穣な混淆性もなく、すべてが溶解したビシソワーズのようで、シンセサイザーは陳腐にひびき、主役たちは失笑しそうなくらい歌が下手で、かえって脇を固める合唱が引き立ったほどだった。劇の進行とはほぼ独立に踊られる船の精霊のような男の独舞も意味ありげだが、これが特段劇の解釈に寄与しない。

3人を世話する移動雑貨屋の「かあちゃん」と、船上の独舞


 おそらくプラスチックな劇ができあがった原因は、「香港スケッチ」には「中国」がないことに求められるだろう。さながら広島と長崎の平和記念式典に米国がことあげされないように。関帝のお札、公園の太極拳は出てくる。だが序幕で雨傘革命以降のデモが示唆されてからは、中国は腫物として扱われ、名前は言ってはいけないあの人とか、隠語のいの字も口に出ない。トラウマが嵩じて大国に敵対しつづける決意さえ霧消したのだろうか。
 だいたいなんで財閥の惣領息子と大陸からの移住者(恐らく東北地方の出身)と飲食店のせがれが幼なじみとして育つんだ。史上最高額の身代金が、香港の財閥の子どもの誘拐から巻き上げられた事件があったのを知らないのか。まして閥族の子弟ならば、家からまっすぐバスかハイヤーで私立のインターナショナルスクールに直行・直帰して、下町に寄るべくもない。そして香港島の山側あたりの豪勢な邸宅から、フィリピン人の家政婦にこしらえてもらったハンバーガーをかぶりつきながら、対岸の騒乱を睥睨するだろう。2022年に主人公3人が20代中盤から後半の年齢だとしたら、SARSによって厳しい外出制限があったはずだ。
 劇中おもわず頭を抱えてしまったのは、「みんなちがって、みんないい」式の「多様性」を擁護する結末だった。夕陽をながめながら、「紫だ」「いやオレンジだよ」「No, it’s definitely light blue!」と銘々が見た色を言う。「みんな違うな」と笑い合う。ある者は残り、ある者は去る。「港だからね!」「誰も悪くないよ!」そんなこと言ってるから中国の「紅!」一色に敗北するんだよ!
 たしかに香港の中流階級が政治意識をもつには遅きに逸した。中国共産党が一国二制度の盟約を反故にするとは考えられなかったのも無理がない。だが、中国はアフリカを中心に世界中に自国の経済圏に収め、華僑・華人のネットワークは日々広がっている。もはやかれら抜きで世界経済は考えられない枢要な位置を占めた。香港がもっていた金融のハブというプライドも、リーマンショック以降金融事態の脆弱性が露呈した。
 そもそも、海外に移住することは決して悪いことではない。国民国家のくびきに縛られてはならない。叉焼屋(チャーシューや)の遺児の主人公も、中華街やチャイナタウンで旗揚げしてから香港に逆輸入するとか、やりようはいくらでもあるだろう。財閥の惣領息子に融資してもらえばよかったじゃないか。
 言わずもがな、天安門事件の敗北は重くのしかかっている。では返還まえからいまに至るまで、財閥は自治を守るために何をしていたのか。あるいは最近、イギリスのジョンソン首相がとうとう辞任においやられたが、首相は香港人を受け容れる政策をとった。そのような弥縫策ではたしてよかったのか。そもそものはじめから、イギリスの外交責任を問う視座はないのか。
 まずは悪しき多様性の夢想から醒めることからはじめよう。香港の独立、ないし自治の回復は、1世紀単位で望見する覚悟が必要だ。
 李白の「送友人」の書き下しを引用しよう。

「青山(せいざん)北郭(ほっかく)に橫たわり
白水(はくすい)東城を遶(めぐ)る
此の地ひとたび別れを為(な)し
孤蓬(こほう)万里(ばんり)に征(ゆ)く
浮雲(ふうん)遊子(ゆうし)の意
落日故人の情
手を揮(ふ)って茲(ここ)自(よ)り去れば
蕭蕭(しょうしょう)として班馬(はんば)鳴く」

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