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質問箱への回答⑨『意識と心についてさらに/気づきとは?』

すこし前の記事でシュラスコ料理を食べに行く予定だと書いたまま、その後どうなったか書いていませんでした。実は出かけはしたんですが、お店が開くのは夜だけだったんですね。わたしは昼行性なので基本的に日が沈むと外出はしません。そのため出直すことは断念したんです。もっとも、看板にあったメニューの写真をみたところでは、ちょっと思っていた感じではなかったので、開いてなくてよかったかもしれません。しかし、シュラスコ欲に火がついてしまったので、いずれ遠からずリベンジを果たすつもりです。

さて今回は二つのご質問をいただきました。そのうちの一つは

こちらの質問にわたしが回答した内容についてであり、質問者さんも同じ方ですね。いつもありがとうございます🙂 ご質問の内容はこちらです。

回答は以下になります。


先日に引き続いてのご質問ありがとうございます。今回のご質問は2点ですね。それでは早速みていきましょう。

まず最初のご質問です。

”「心を認識している意識」という文言における「意識」は実は心のことなのですね。”
ということですが、意識はただ心が現れる場であり、心の中身を認識しはしないということでしょうか。

その通りです。意識とは存在の基盤であり、かつ存在そのものです。そして、前にも書きましたが、心とは意識というスクリーンの上に映されたコンテント(内容物、中身)です

質問者さんは「心の中身」と表現されていますが、心とは浮かび上がっている内容(中身)そのものです。質問者さんは心があり、心の中身があるとお考えのようですが、そうではなく、心=心の中身なのです。

なにかを認識している、というときその認識とは視覚的な情報であったり音であったり、あるいは概念や思考といったものが心に浮かんでいるわけですね。つまり、認識しているものそれ自体が心なのです。心はコンピュータのCPUのような演算装置ではなく、ただやってきたものを認識しているだけで、思考や判断にしても心がそれを行っているのではなく、ただやってきた思考や判断を認識しているだけなのです。このことについてはin SPIREの記事で触れていますからここでは詳細に立ち入りませんが、noteに転載する際にその記事へのリンクを置いておきます。

結論としては、心の中身を「認識」しているのはまさに心そのものです。そして、心を生じさせている意識は「心が生じていること」に「気づいて」います。この「気づき」とは「認識」という言葉が意味している概念とは別のものです。「気づき」については次のご質問のところで改めて触れましょう。

ところで、心は意識のコンテントであるという観点からは、「ある肉体精神機構の心」という表現と「ある肉体精神機構の意識」という表現はほぼほぼ同じ意味となります。しかし、厳密にいうのであれば意識は分割できませんから、わたしの意識とかこの肉体精神機構の意識という言葉は本当は不適切なんですね。でも意識レベルについて先日ご説明したとおり、便宜上はそのように言う方が話がしやすいですし、そうしたところでさしたる問題は生じません。むしろ、探求者にとって、ある段階まではむしろそのように考えていかないとなかなか理解が進まないかもしれません。

しかし、理解が一定の段階を超えていくとき、こうした意識の個別性が見かけ上のものでしかないことに気づく必要があります。知覚がそのように変容していって気づく場合もあれば、先に(例えばこの記事を読むことによって)知識として知ってから、徐々に知覚がそれに追いついてくる場合もありますが、いずれにしてもそれは意識レベル500台で起こります。

さて次のご質問です。

”絶対的な非顕現には、存在も不存在もありません。あるのは、存在/非存在の可能性だけです。この可能性を「気づき」と呼ぶことができますが”

https://merciful.hatenablog.com/entry/2020/05/01/015159

たしかにわたしはこのように書いていますね。これもnoteに転載するときには該当する記事を載せておきます。この引用文は件の記事の冒頭の部分となります。

まず、絶対的な非顕現とは、まったくなにもないだけでなく、なにもないということさえないという状態です。これは人間の理解を超えているものですから頭で考えてもどういうことか分かりません。しかしながら、論理学的には「なにかが存在している」という観念は同時に「存在していない」という観念と裏腹であることは理解できます。

つまり絶対的な非顕現とは、そうした観念が生ずる以前の状態です。しかしこの絶対的な非顕現=無なのかというと、そうではないというところがポイントです。無とは本当に何もないわけですから、それについてこれ以上言及することはなにもありません。無が無である以上、そこからなにかが生じることもありませんから、この世界にせよ、わたしたち人間の(見かけ上の)意識にせよ、無からはじまったのではありません。

絶対的な非顕現においては存在も非存在もまだなかったのですが、いずれそこに存在と非存在が生ずるわけです。つまり、存在/非存在の可能性だけが「在った」のですね。

可能性だけが「在った」ということは、絶対的な非顕現とはその可能性そのものである、ということです

ところで意識は存在の基盤であり、存在そのものです。それゆえ絶対的な非顕現の状態にあった存在/非存在の可能性が顕現したものが意識です。つまり、絶対的な非顕現とは意識に先立つ状態のことです。そして、意識は意識それ自体に気づくことによってその中に形のあるものを創造しているのですが、この気づきという性質は意識のもつ性質ではありますが、もっといえば意識に先立つ絶対的な非顕現の性質なのです。

つまり絶対的な非顕現とは、存在/非存在の可能性がそれ自体に気づく性質のことであり、気づかれた可能性は「存在/非存在(=意識)」として顕現し、意識はその性質を引き継いで自らに気づき続け、それによって自らを拡大し、その中で進化を引き起こしています。

よって、存在/非存在の可能性とは気づきのことであり、気づきとは存在/非存在の可能性のことといえます。同時に、顕現しているこの世界では意識は気づきであり、気づきとは意識のことです

ちなみに、意識の見かけ上の個別性の話と同様、気づきという言葉も例えば人間の心が心それ自体に気づいていることや、あるいはもっと単純に「なにかに気づく」というように文脈によって多様な意味で用いられます。気づくという言葉は本来が人間的な概念ですから、ここで話してきたような「気づき」はむしろ一般的には理解されにくいでしょう。

二つ目のご質問への回答は以上となります。このin SPIRE の記事ではたくさんのテーマを駆け足で述べていったため、個々の話について説明が充分ではありませんでした。今回、ご質問をいただいたことで、多少なりともその点を補完できたことを幸いに思います。回答がお役に立ちましたなら嬉しいです。

質問者さんもよいお年を!😉

お読みいただいたみなさまも、よいお年を!本年はどうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

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