名のない語り手
物語は、いつも語り手によって表情を変える。
水木しげるの描いた有名なキャラクターに「ぬりかべ」がいる。この誕生秘話というのを、人づてに聞いたことがあった。こんな内容だった。
水木は戦時中、敵に追われてジャングルの中を逃げていた。夜も暗くなり、手探りで進むしかなくなっていく。あるところまで来ると、手が壁のようなものに触れた。ダメだ、もうこれ以上は進めない。疲れ切っていた水木は、そのまま眠り込んだ。
翌朝おきてみると、そこは崖のふちだった。見えない壁に命を救われた水木は、その後この体験を元に「ぬりかべ」を生み出した。
わたしが聞いた話はそんな感じ。これをネットで調べてみると、今度はこんな内容が出てくる。話の大枠は同じだけど、細かいところが違っている。
語り手によって、同じ話もわずかに表情を変える。実際の水木しげるがなんと言ったのか、あるいは書いたのかは知らない。人づての話に「出典」とか「参考文献」なんてものはまず示されないし、ネットで拾ったエピソードも参照先は書いてない。
でどころが不確かな噂話っていうのは、こうやって広まっていくんだろうな。別のサイトを見たら「水木しげるは(この話を)繰り返し語っています」とあったから、みんなラジオとか講演会で聞いたのかもしれない。口伝えの話は出典を示しにくい。
物語って、本来そういう形をしているんだろう。そんなことを思う。誰がどこで言ったかわからない話が、人から人へ伝わって、そのうち徐々に形を変えていく。話の骨格は維持しながら、ディティールが変わっていく。作者が誰とも言えない物語。
わたしたちは、昔話であれなんであれ、文字に起こされたお話に慣れ過ぎている。物語といえば文字の形をしていて、本にプリントされていて、それが絶対のオリジナルだ。作者はひとりであり、アレンジを加える余裕はない。二次創作は原作より地位が低い。
それってどうなのかなあ、と思う。物語はだれのものなんだろう?お話を受け取った人が、自分なりに続きを考えたり、「原作」にない物語を編み出したりする。それは果たして「地位が低い」んだろうか?むしろ物語ってそうやって受け取って、次に伝えていくものなんじゃないか。
もちろん現代では「著作権」なるものが明確にある。「他人のつくりだした作品を使うなど盗用であり、二次創作はひっそりやるべきだ」……こういう意見は理解できる。でもそれはずいぶん現代的な考え方であって、もっと言えば現代的に毒された考えだ、とも言える。
ほんとうは物語って、誰のものでもないんじゃないかな……。作者がだれとも言えないのに、お話の言葉だけがずっと語られて残っている。それが「本物」だって気がする。
いまの時代の作家たちの不幸は「名前が残ってしまうこと」かもしれない。無名の作者として歴史に溶けることはできなくて、いつも作品にはだれかの名前が貼られている。そういう不幸について考える。
本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。