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文化をやってく、ちゃんとやる

 「文化」とはなにか……みたいな話を読んでいる。英語の「カルチャー」の語源は「耕す」である、なんて蘊蓄が出てきてもピンとこない。こちとら日本語話者だからね。関係ないとまでは言わないけれど、ふだん使っている「文化」という言葉に「耕す」を聞き取る日本人はほぼいない。
 
 じゃあなんなんだ、という話になる。この単語が使われるメジャーな場面といえば、憲法第25条か。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という、あれ。
 
 わざわざ「文化的」の一語が入れられているのは、健康なだけではダメだからだろう。「食うに困らず、体に痛い痒いがないならそれでいいよな」ということではなくて、どうしてもここには「文化」の二文字が必要だった。
 
 食べるだけではない何か。体を維持するだけに留まらない何か。そういうものが「文化的」には込められているのであって、この憲法第25条というのは、日本の法の中で自分が一番重視するものかもしれない。
 
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。美しい条文だ。「言葉ばかり美しくても仕方ない、政治がそれを保証しなかったらなんの意味もない」と言う人もいるけど、そういう人は第12条を思い出してほしい。
 
 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」。つまりは、政治家や自治体任せにするのではなく、国民みずからが憲法に息を吹き込むべく努力せよ、と書かれている。
 
 文化的な生活を送る権利もまた、保持しようとしないと絵に描いた餅に終わる。生活保護受給者が美術館に行くことについて、嫌な顔をする人がいました……なんて話を読むと、それだけでくたびれてしまう。
 
 美術館に行く側は、それを権利と信じて堂々と行ってほしい。嫌な顔をする側は、気持ちがわからないわけじゃないけど、憲法で保障されていることなので呑んでほしい。この場合の「文化」って、食べて生きる以上の、娯楽や趣味の話になる。

 人はパンのみにて生きるにあらず、人生にはパンだけではなくバラもなくてはならない。
 
 自分の言葉でいいかえるなら、文化的であるとは、人間らしくあることと同義になる。栄養補給ができるだけのギリギリの食事で満足しなくていい。おいしい料理を求めていい。生きるに足るだけの生活で満足しなくていい。より美しいものや好きなもののある暮らしを求めていい。憲法は、幸福追求権についても明記している(第13条)。
 
 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。生活保護受給者のちょっとした贅沢が耐えられない人たちは、第25条を繰り返し読んでほしい。なるほど、税金に頼って暮らす人が少し贅沢をするのは、気に入らないのかもしれないけど。その気持ちがわからないわけではないけど。
 
 「貧乏人は貧乏人らしく、最低な暮らしをしていろ。娯楽にも趣味にも金を使うな」という言説には賛成できない。憲法に反するので。
 
 自分は放っておくと、それなりに生活できるお金を持っていながら非文化的な生活に堕ちそうになる。聴きたい音楽も着たい服もさしてない、趣味も娯楽もありません、ただ生きているだけ……。職場と家を往復する以外にやることがなくなると、生活が枯れていくのが目に見えている。
 
 こういう人間だから、わりと意図的に「文化」をやる。じゃないと生活が荒れていって、なんのために生きているかわからなくなるから。好きなものや娯楽や趣味、文化的なものに執着しているのは、そういう理由だ。それがなくなったら、生活の全体が灰色になっていくと知っているから。
 
 健康で文化的な暮らしを営むための不断の努力、がんばる。


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本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。